蕅華隖及び葉園という場所は、地名ではなく、むしろ幽棲寺または大報恩寺にある建物の雅称にすぎないと思われる。たとえば、智旭の三十代の折の「梵網室」と四十代の折の「浄信堂」は、いずれも智旭の居室の雅称である(29)。したがって、五十代頃に、「蕅華隖」或は「葉園」の雅称で彼の居室を呼んだとしても、怪しむには当らないであろう。

最後に、秋曙の拈花庵という場所は、どこにあるのであろうか。これは智旭五十四歳の冬、浙江の長水営泉寺に結冬してから、五十五歳の元旦、彼の故郷古呉に向う途中の場所である(30)から、恐らく長水附近にあると推測することができる。

1 先に表に表わした地名は、すでに筆者が整理の手を加えたもので、原資料のままではない。

2 「選仏譜序」参照。

3 『明史』巻三二六「列伝」二一四「外国伝」の七。\開明書店鋳版八三六頁C

4 中華書局出版(一九四〇年)徐宗沢編著『明清間耶穌会士訳著提要』三五八頁に記する一六一六年南京において発生した王豊粛事件は、卽ちこれである。

5 「重刻諸経日誦自序」に、「雲棲和尚較刻定本、古杭諸処、多分遵行、而留都積弊、分毫未革。邇与幽棲学侶、カ正其譌、重謀付梓。」と述べている。この序文の製作年代は、卽ち智旭の四十九歳と五十歳の間で南京の幽棲寺に卓錫している頃である。\宗論第六ノ三巻二二頁

6 『明史』巻七六「官職志」五。\開明書店鋳版一七二頁C

7 『明史』巻三〇八「列伝」一九六奸臣伝『馬士英伝』。\開明書店鋳版七七六頁CーD

8 宗論八ノ一巻五頁

9 宗論一〇ノ一巻二頁

10 蔵経を閲覧する場所は「蔵堂」と名づけ、坐禅するところは「禅堂」と名づけ、礼懺するところを「懺堂」または懺壇と名づけるのである。

11 卍続一四四巻四八三頁D―四九四頁A

12 『宗統編年』巻三十の壬寅(一六〇三)年条に、「無異来和尚住広信博山」と記している。\卍続一四七巻二二八頁B

13 「閲蔵畢願文」。\宗論一ノ四巻一二頁

14 春秋時代の呉王闔閭が建造した太伯城は、