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- たとえば「古呉智旭」あるいは「古呉沙門智旭」と使用している。
- たとえば「自像賛」の二十四に、「此是呉門不喞[口*留]的鍾振之」という。\宗論九ノ四巻二二頁
16 「影渠道山二師合伝」。\宗論八ノ一巻二〇頁
17 卍続一四七巻一頁A
18 「自観印闍黎伝」\宗論八ノ一巻一三頁
19 同上。
20 「鉄仏寺礼懺文」。\宗論一ノ四巻一頁
21 「長干宝塔放光序」。\宗論六ノ一巻一二頁
22 「預祝乾明公六十寿序」。\宗論八ノ二巻一六頁
23 「礼大報恩塔偈」。\宗論一ノ一巻八ー九頁
24 「自観印闍黎伝」。\宗論八ノ一巻一四頁
25 この寺の沿革によると、大報恩寺は、三国時代の呉の赤烏年間(二三八ー二五〇)、康僧会が仏舎利を求得し、これがため呉主孫 権は、建初寺を建て、宋朝の天禧年間〈一〇一七ー一〇二一)、これを天禧寺と改名し、元代末には兵火に会って燬けたので、明の永楽十年(一四一二)これを再建して、大報恩寺という額を賜わった。よってこの大報恩寺の開山は康僧会である。智旭はこの大報思寺との深い関係のために、康僧会を「十八祖像賛」に入集しているわけである。
26 「西有寱餘自序」。\宗論六ノ四巻一八頁
27 「西有寱餘自跋」。\宗論七ノ二巻一五頁
28 「丙申(一六四六)重陽同湛持公登祖堂山」の詩がある。\宗論一〇ノ三巻一四頁
29
- ①「梵網室銘」に、「諦観心地門、応信室非邇」。\宗論九ノ二巻一一頁。②「梵網室銘」に、「我所住室、皆名梵網」。\宗論九ノ二巻一二頁
- 「浄信堂銘」に、「我所住堂、皆名浄信」。\宗論九ノ二巻一二頁
30 「癸巳(一六五三)元旦過秋曙拈花庵」。\宗論一〇ノ四巻五頁
三 智旭の生涯における環境の意味
智旭の生涯の足跡における重要な地理的環境は、およそ径山・竜居・金庭山・九華山・温陵・霊峰山・普徳講堂・祖堂山・新安などである。そこでこれらの地理的な環境が、