明末中國佛教の研究 167

仏教者智旭の生涯と如何なる繋がりを持ったかを論じてみようと思う。

径山


径山とはまた径山寺ともいわれ、牛頭法欽(七一四ー七九二)の開基で、臨済宗の専修道場である。智旭は二十四歳(一六二二)で出家してからまもなく、径山に入って坐禅を修行し、さらに翌年二十五歳のとき径山において二回目の坐禅を行なったが、その結果、大きな悟境を体現した。これは智旭の生涯を通じてみても、禅味の最高の境界であると思われる。智旭はその年の冬、比丘戒を受け、またその翌年、二十六歳(一六二四)の冬、菩薩戒を受け、次第に坐禅の道から、持律者の浄土念仏者ヘと転身していった。実際、明末の径山には、偉大な禅師はいなかった。しかし、達観真可(一五四三ー一六〇三)が創刻した方冊本の大蔵経の木版が、径山寺に保存されていたし、ことに真可の遺体が径山の文殊台に葬られていることもあって、智旭は真可に対する敬仰心の故に、坐禅の場所を径山に選定したのであると思われる。また、智旭が径山に於て自力によって無二の悟境を得たこともまた事実である。

雲棲寺


雲棲寺は杭州の「梵村」という村にある寺で、蓮池大師祩宏(一五三五ー一六一五)によって、明の穆宗の隆慶五年(一五七一)に始めて建てられたものである。ここで祩宏は、徧融真円(一五〇五ー一五八四)から受けた「老実持戒念仏」(1)という教訓を充分に実践している。智旭は祩宏と相会うことは年代的に不可能であったが、智旭の比丘戒並びに菩薩戒の受戒道場は、いずれも雲棲寺であった。そのため智旭は、戒律における私淑者は蓮池和尚であると表明している(2)。また智旭の初期の浄土思想についても、祩宏の影響が大きかったとみられている(3)。なお、始めて『唯識論』を聴講して、性相の矛盾を疑うようになったことも、雲棲寺での出来事である。このように、智旭における雲棲寺は、智旭の戒律思想、浄土念仏思想および性相融会論に向う出発点であると思われる。

龍居の聖寿寺


智旭は三十歳(一六二八)の時、持律者となる心算で、終南山へ向い、その途中、