明末中國佛教の研究 168

道友の雪航智檝に会った。雪航は丁度戒律学を勉強する意図があったので、智旭を竜居の聖寿寺にひきとめた。この聖寿寺は嘉興地方のかなり大きな寺であるが、仏教史上にはあまり知られておらず、明末頃すでに蔵経を蔵していた寺であった。かくて智旭は聖寿寺において、再び律蔵を閲覧し、『毘尼事義集要』の初稿を完成した。しかし、この寺において最も重大なことは、彼が智檝・道寿・受籌の三人と訂盟をしたことである。智旭は三十一歳(一六二九)の冬、帰一受籌とともに、ここで結制安居して、三たび律蔵を閲覧しながら、十八巻の『毘尼事義集要』を録出した。翌年、智旭が三十二歳の春、如是道昉が惺谷道寿に従って金陵より竜居に帰り、その年の夏安居は、ここで智檝・道寿・道昉の三人に向って、詳細に彼の『毘尼事義集要』を講義することで費された。受籌はこの『毘尼事義集要』のために、跋文を作っている。この跋文の内容を考察すると、当時の智旭を中心とする彼らの戒律思想は、伝統的な南山道宣系の四分律ではなく、むしろ東塔懐素の系統に属する風がみえる(4)。これらの出来事をみるならば、竜居の聖寿寺は、実に智旭が戒律復活運動を推進するための中心舞台であると云わなければならないと思う。

金庭山の西湖寺


金庭山は浙江省嵊県の東にある桐柏山のことである。智旭の生涯においてこの西湖寺は、竜居聖寿寺時代の延長とみるべきであると思う。この寺は受籌の勧誘で、彼ら「毘尼社」構成員全員の力で築いた新寺院である。このことについて、智旭の資料は、次のように記載している。