明末中國佛教の研究 169


このうち「ト居」と「奉大士慈命」とは、智旭が占トを大変好んだことを示しており、多分観音菩薩または地蔵菩薩の前で、占トしてから金庭山に出て西湖寺を建てたものと思われる。この西湖寺は、「誅茅」という言葉があるので、実際のところは数棟の茅舎だけであったと考えられる。ここで智旭は「毘尼社」の師資九人の相手に対して、再び『毘尼事義集要』を詳しく講義した。けれども、残念なことには、それからいくばくもなく、盟友である帰一受籌が背盟して去っていってしまったのである。このため智旭は戒律の復活運動の熱意を失い、比丘戒を捨て自ら菩薩沙弥に退転した。これによって智旭の戒律学時代の終止符が打たれたのである。ために、智旭は三十五歳の夏安居の終了に伴い、西湖寺を離れてしまった(5)。彼が五十三歳にして再び西湖寺に登った時、千万の感慨のうちに、

風帆破浪陟危岡、轉憶交情空自傷。七十二峰明月在、千秋逸興付波光。(「辛卯(一六五一)季秋重登西湖寺有感三首」\宗論一〇ノ四巻二頁)

と詠じたのもむべなるかなである。昔の戒律復活運動の念願に基づいてともに暮した盟友を思い出しながら目の前に見る金庭山七十二峰の景観は、昔のままである。しかし、昔の念願はすべて明月の光りのように、時間と共に流れ去ってしまったのである。この西湖寺に対する智旭の悲しみの深さは、この詩句によくみられるであろう。

安徽九華山


盟友である帰一受籌の背盟事件で、智旭は戒律復活運動の夢を完全に破られてしまった。三十五歳の夏から三十六歳にいたる二年(一六三三ー一六三四)間の智旭は、その生涯で最も多難多悩な時期を生きていたのである。彼の資料は、この間の消息について次の二つの記事をもって示している。

と。この「匍匐苦患」と「挙世非毀」という言葉は、智旭の三十五・六歳の二年間の生活を活写しているものといえよう。彼は西湖寺を離れてからは、あちこち流離して、足休めするところさえなかった。三十六歳(一六三四)の冬、故郷呉門に帰って、彼はようやく幻住庵の住職である竺璠浄公に留められ、『毘尼事義集要』を講ずることができたが、この寺の住職は、律僧に対して、あまり敬意をもたなかった。彼は「密滲の禅」に熱中する癖があり(6)、智旭のような禅・教・律を並重する僧侶とは性格があわなかったのである。その上、三十七歳の冬、智旭は酷い病気にかかって、文字通り九死に一生を得るという有り様であった。それ故、彼は地蔵信仰に基づいて、罪深い自分を懺悔する意味で、地蔵菩薩の聖地である安徽の九華山に隠遁したのである。これは、彼が三十八歳(一六三六)の三月のときの出来事で、厳密に云えば九華山隠遁後の生活もなお苦難の歳月の連続であったと言うべきであろう。

九華山に入った智旭によれば、この山は確かに修道者にふさわしいものであって、街中にいた時のいろいろな人事の紛争や思想的摩擦などの人為的な煩悶は、一切消滅したのであるが、病いをもつ身にとっては、それにふさわしい余裕ある療養の場所ではなかったのである。智旭が九華山にいたときの情景を歌った「遣病歌」の中に、次のような詩句がみられる。

九華峰頭雲霧濃、三月四月如隆冬。厚擁敝袍供高臥、煖気遠遁來無從。拾取松毬鎮日煨、權作参苓療我疾。我疾堪嗟療偏難、阿難隔日我三日。(宗論一〇ノ二巻七頁)

九華山はかなり高処にあるため、春の三月・四月になっても、真冬の寒さが続き、