古い綿入れにくるまつて睡っても、暖まらない程である。『楞厳経』巻第五には阿難が「隔日瘧」をもつ人であるという譬喩が書いてある。しかし、阿難の隔日瘧は、思惑煩悩を断除していないことの譬喩であるが(7)、智旭の「三日瘧」とは、現実にマラリアに襲われたことを示している。九華の山において、なんの薬もなく松毬を拾って焼いたものを薬とし、病いを治すありさまがうかがえる。このような当時の生活の貧しさについては、次の諸書の記載、すなわち、

からも知ることができる。この中の「腐滓」とは豆腐のかすであり、「糠粃」とは米ぬかである。豆腐のかすを干して、妙めて塩を振り、これをおかずにして飯を食べる。飯は米飯ではなく、米のぬかを極めて細かく麦粉のようにして飯に似せて、これを主食とするのである。このような厳しい自然環境と貧しい生活環境の中で暮した智旭の健康状態は、言うまでもなく非常に悪かった。これについて、彼の「山居六十二偈」は、

一病五百日、形神竝已枯。緇素偶相値、稱我鳥禪癯。(宗論一〇ノ二巻一頁)

と記している。年余の病気を得たため、体が痩せて枯れた柴のようになってしまい、たまに他人と出合うときは、みんなが彼を「禪癯」――痩せた禅者と呼びかけるのであった。ところが、このような苦しい暮しも、