明末中國佛教の研究 172

九華山に入って半年余りの後に、やがてよい運勢にめぐまれるのである。これについて智旭は「与了因及一切緇素」の書翰の中で、

夙障深重、病魔相纏、從此為九華之隱、以為可終身矣。半年餘、又漸流布。(宗論五ノ二巻八頁)

と自白している。遂に彼三十九歳(一六三七)のときに至り、昔の道友如是道昉(一五八八ー一六三九)、弟子自観照印(一六〇二ー一六四一)等は、相い次いで彼の九子別峰を尋ねてきて、『梵網経』と『楞厳経』の要義を問うたのである。そこで彼は、『梵網経玄義』と『合註』を作成し、『壇中十問』と『性学開蒙』を作った。これまでの智旭を教学的にみるならば、小乗の比丘戒の持律者を大乗菩薩戒の高揚者に転換せしめたといえるのであるが、ここにおいて彼は戒律中心の仏教学者からさらに一段と進んで、『楞厳経』の実性論に依準する仏教学者となったのである。実に九華山の二年間の生活で、智旭は「著述弘経、先修観智」という理想(8)的な道を開拓したのである。この二年間は、智旭の教学思想を成熟するための最も重要な一段階であったと思われる。

温陵と漳州


一六三七年の夏と秋に、智旭は九子別峰の華厳庵で、「著述弘経」の序幕を開き、翌年四十歳(一六三八)の夏、九華山を降りて安徽省の新安陽山に入って、再び『楞厳経』を宣講し、秋には如是道昉の約束に応じて、南へ向い、福建省の温陵(晋江泉州)に赴いた。四十一歳(一六三九)の夏、彼の代表的著作である『楞厳経玄文』を完成し、四十四歳(一六四二)の五月に浙江省に戻るまでのまる三年の間、ずっと福建省の温陵と漳州の両地で、「著述弘経」の暮しを送ったのであった。この三年間で『楞厳経玄文』を始め、華厳・楞厳・法華三経を含む『蕅益三頌』、『妙法蓮華経玄義節要』、『法華綸貫』、『金剛破空論』等の諸書を作成した。なお、「引儒入仏」のための『周易禅解』という著述も、この時期から着手しはじめた。智旭は九華山の『梵網経』時代、温陵の『楞厳経』時代、漳州の『法華経』時代を経歴した後、南方の教化生活を閉じて、北へ帰るのである。