明末中國佛教の研究 173


智旭の著述において、当時の温陵と漳州の僧についてみられるのは、惺谷道寿(9)と如是道昉(10)であるが、二人は共に温陵の人である。なお徐雨海居士(11)も温陵仏教界の著名人である。智旭がその両地にいた頃、曹洞宗の名匠である永覚元賢(一五七八ー一六五七)も福州の鼓山(12)にいたが、彼とはあっていない。

北天目の霊峰山


この霊峰山は智旭の根本道場であるが、彼が三十五歳で霊峰山を降りてから、十年ぶりに再び帰山した。その年の秋、鶴の群れが霊峰山に集ったのを見て、彼はこれを霊瑞と思い、「中秋後二日群鶴集於霊峰賦霊鳥」(13)という詩篇を作った。ついでまた山を出で、翌年四十六歳のとき(一六四四)霊峰山に帰り、『入山四首』(14)の詩を残した。智旭の霊峰山の印象は、彼の「山客問答病起偶書」という短文の中の次の文によくあらわれている。

霊峰有五美四悪。何謂五美、一者泉甘且多、二者黜陟不聞、三者暑不酷、四者寒焼柴火、五者蝨少。何謂四悪、一者病時醫薬難、二者貧時借貸難、三者大風能飄瓦、四者地瘠多砂・所生穀菜・味皆劣。(宗論四ノ三巷一八頁)

ここに記されている霊峰山の五美と四悪をみるならば、当時の霊峰山の厳しさと貧しさは、実に九華山と伯仲するものである。しかし晩年の智旭は、この山で、『法華会義』十巻を完成し、続いて『占察善悪報経玄疏』、『閲蔵知津』、『法海観瀾』等の重要な著作も、この山において完成した。そして、最後にはこの山は、彼の亡くなり、かつ埋葬されるところとなるのである。

普徳講堂


智旭の生涯の中、霊峰山ヘ出入すること九回に及んだが、そこは修行と休息(15)の根本道場であって、接衆教化の場所ではなかった。したがって、彼四十五歳の夏は、霊峰山に夏安居をしたが、秋には『闢邪集』を出版し、冬に入ると、留都の普徳講堂の『法華経』講座に行ったのである(16)。この講堂の性質については、すでに本書の第一章第二節(十八頁)に述べてある。恐らく仏教の団体ではなく、