むしろ陽明学派の一つの集会所ではないかと考えられる。ここで智旭は自ら始めて「座主」と称し(17)、この講堂で『法華経』を始め、『唯識論』(18)・『楞厳経』(19)を講じた。後の『法華会義』作成の動機も、この普徳講堂の講座に求められるのである(20)。四十六歳の春に『蕅益三頌』を再版した(21)のも、『大乗止観法門釈要』を出版した(22)のも、この普徳議堂であった。その功徳主となった李石蘭と張孺含の二人の居士は、この講堂で重役をしていた人で、いずれもここで智旭に帰依したのである(23)。この講堂に出家僧侶の姿が見られたのは、智旭以前には滅多にないことであったと考えられる。換言すると、普徳講堂で活躍したときの智旭は、彼の独特な教学思想が、始めて円熟した段階に至ったときであるとみことができよう。その活躍の期間は、僅か半年ぐらいである(24)が、彼の中心思想である『楞厳経』・『大乗止観』・『成唯識論』・『法華経』などの諸経論を集成したいわゆる性相融会の思想を披露した場所は、この普徳講堂だけである。
ところで、体の弱かった智旭は、半年ほどの活躍の後、四十六歳の夏に、また病魔に犯され、まず嘉興天寧寺の講座を辞め、次に留都普徳講堂の座主職を退き(25)、彼の生涯中、最も華麗な教化活動の時代を終えたのである。 祖堂山と長干 祖堂山の幽棲寺は、また祖堂寺の延壽院ともいい、牛頭山の南五里のところにあり、牛頭法融(五九四ー六五七)の開基した禅宗の道場である。智旭の頃の幽棲寺の方丈和尚は湛持公(26)という人で、さほど著名な僧ではなかったらしい。しかし、智旭の四十六歳の冬から五十一歳の秋にいたるまで(一六四四ー一六四九)の生活は、すべてこの幽棲寺と長干の大報恩寺と石城北の済生庵において送られたのであるが、それらの中心となる住所、実にこの祖堂山の幽棲寺であった。ここで彼は結冬や結社礼懺や改訂諸経日誦や著述や説法などいろいろな活動をしていた。たとえば、『周易禅解』・『成唯識論観心法要』・『阿弥陀経要解』等の重要著作は、みな智旭四十七歳から四十九歳の間に完成したもので、