彼の最も優秀な弟子というべき堅密成時と始めて会うことができたのもこの期間のできごとである。
幽棲寺に住した時代の智旭は、時には長干の大報恩寺に逗留することもあった。この大報恩寺の歴史については、すでに本書一六六頁の二十五註に説明しているが、智旭の感情と繋がるところは、彼の剃度の師祖である憨山徳清(一五四六ー一六二三)が、十二歳頃(一五五七)、この大報恩寺の西林寧公をたより(27)彼に剃度されたことであろう。そこで、智旭にとっての大報恩寺の存在価値は、ひとえに彼が自らの出身源流の祖庭であると思っていることにあると考えられる。このためか、当時大報恩寺の方丈和尚であった乾明公という人は、著名な僧侶とはいいがたいのに、智旭は明末の傑僧であるとして称讃している(28)。
新安の諸寺
新安とは安徽省の地名で、智旭は四十歳(一六三八)の夏、一度新安の休寧地方の陽山止観山房で布教したことがあるが、五十五歳の夏に、再び新安へ行った動機は、前回の布教に関連しているのではないかと思う。なぜならば、前回は休寧の陽山が目的地であったが、今回は堅密成時の邀請と案内に基づいて、堅密成時の故郷である歙県を目的地としているのである(29)。この地で主に説法布教した場所は、歙浦の天馬院と棲雲院、そして歙西の仁義院の三箇所ある。すなわち、
- 歙浦の天馬院では、『起信論裂網疏』と『選仏譜』を作成し、「校定宗鏡録跋」を作り、『袁宏道集』を刪汰した。
- 歙浦の棲雲院では、再び『阿弥陀経要解』を演説し、また釈義と分科をしておる。
- 歙西の仁義院には、浄土念仏を勧修する『普説』という文献が残されている。なお文殊院・臨塘寺。芙蓉苑・大蘇庵などの寺寺をも廻って遊歴したのであるが、それらについては書くべき何ものも存しない。
小結
以上のことから、智旭の生涯において、彼が活躍した地理的舞台について結論的に述べるならば、