明末中國佛教の研究 185

智旭はこの信仰の許に生れ、七歳から斎食になった。しかし、十二歳頃は、儒学に影響されて、「謗法」の罪を作したが、十七歳のときに雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)の『自知録序』および『竹窗随筆』を読むにおよんで、また仏教の信仰に戻った。この二つの祩宏の著作には、深い儒仏道の三教同源論の思想がもられているので、この段階の智旭の信仰は、恐らく素朴な観音信仰から仏教の教理信仰に向ったものであろう。後に、彼は二十歳頃、彼の父が病気にかかった折に、延命信仰の『薬師経』を礼拝したが、結局、父はなくなった。そのため、中国の孝道思想に応ずる経典であり、また祖先追思に応ずる経典である『地蔵本願経』が、彼の信仰の内に入り込んで、出世の願望を呼び起した。彼はさらに母の延命を願うために、『慈悲薬師宝懺』を書写して、持戒と念仏の信仰実践の道を始めた。これは智旭が普通の民間仏教から、一歩を進めて正信の仏教ないし出家仏教の道に赴いた証拠である。彼の一生を貫徹する戒律思想と念仏思想の雛形も、この頃すでにできあがったものと思う。しかし、二十三歳の折に、『大仏頂首楞厳経』を聴講して以来、二十八歳に至るまで、とくに重い病気にかかったときなどは、西方極楽世界に行くことを願っているが、禅の道は未だ頑固に守っていた。それから三年後の三十一歳の春、彼は江西博山の無異禅師大艤元来(一五七五ー一六三〇)から末世禅宗の流弊の多いことを知らされ、禅を捨てて専ら浄土の念仏に没頭し教学と戒律の高揚に力をいれるように固く決意をした。教学においては、『楞厳経』が智旭の最初に心をひかれた経典であり、また彼の中心思想をなす経典であった。二十四歳のときに、『唯識論』を聞いてから、彼は『楞厳経』との矛盾を感じ、しかも解決の方法がみつからぬため、禅の道に傾き、次第に禅より念仏に彼の結着点を求めた。ゆえに智旭の念仏は、性相融会の理念から、また禅観と唯識観の観行から、浄土念仏に帰着する信仰であったであろうと思われる。

ところで、念仏信仰は、もちろん彼の最高最終の信仰であるが、智旭の資料を考察すると、