四十八歳に至るまでの智旭の信仰活動は、むしろ観世音と地蔵のいわゆる二大士を中心になされたと思われる。薬師信仰は二十歳と二十一歳のときに、二回資料に見出されるけれども、その後はほとんど見あたらない。
1 『妙法蓮華経』巻七の普門品に「設欲求男、礼拝供養観世音菩薩、便生福徳智慧之男」とある。\大正九巻五七頁A
三 観音信仰と地蔵信仰
観世音菩薩の信仰に関する経典は、望月『仏教大辞典』(1)によく説明しているので、ここでは省略したいと思う。『法華経』以前の古経典では、本縁等はまだ説かれていない。『法華経』に至って、始めて観音菩薩の一品を設けたので、まず西晋の竺法護の『正法華経』(二八六年)訳出後、幾ばくもならずして観音菩薩の信仰が興り、また姚秦の鳩摩羅什の『妙法蓮華経』(四〇五年)伝訳以後は、ますます盛んとなった。これに関する事跡を伝える文献記載は頗る多い。そのため、観音信仰が中国の民間仏教になってから、観音関係の偽経も相い次いであらわれた(2)。
唐宋以後、観音菩薩の形像は、観音送子や、観音老母や、観音娘娘という民間信仰によって、すベて女性の姿であらわされる。とりわけ、江蘇・浙江・福建・廣東・台湾およぴ南洋の華僑社会において、観音信仰は、彼らの唯一の精神的依拠の対象であるほどになっている(3)。したがって、明末に江蘇省で生れた智旭が、幼少の頃から観音信仰に慣れていたのは当然なことであろう。