次に地蔵菩薩に関する経典には、『大方広十輪経』、『大乗大集地蔵十輪経』(4)、『占察善悪業報経』(5)、『地蔵菩薩本願経』(6)並びに燉煌出土の『地蔵菩薩経』(7)がある。隋唐以後、地蔵信仰は盛んになった。中で、最も著名な『地蔵十輪経』の宣揚者は、三階教の信行(五四〇ー五九四)である。彼は、『十輪経』に依って普仏普法の説を提唱し、地蔵菩薩の礼懺を説いたが、当時、彼の教説は、地蔵教と称せられたのである(8)。宋代の常謹の『地蔵菩薩霊験記』は、梁代以後宋に至るまでの地蔵菩薩の霊験三十二種を集録したものである。清代には岳玄の『地蔵菩薩本願経科註』一巻、霊耀の『地蔵菩薩本願経綸貫』一巻とその『科註』六巻、真常の『地蔵菩薩本願経手鑑』六巻があり、また智旭の著述には、『占察善悪業報経』の『玄義』一巻と『疏』二巻『行法』一巻、および『礼地蔵儀』一巻がある。
ここで、地蔵経典群の中国における流伝を編年的にみれば、『十輪経』、『占察経』、『本願経』の順序となり、その註疏もまた流伝年代順の通りである。しかしながら、『占察経』と『本願経』等五種の地蔵経典は、みな中国で作られた偽経であると近代の学界では云われており(9)、地蔵思想は如来蔵思想のもとに発展してきたものとも云われている(10)が、当時の智旭ないし今日の地蔵信仰をもつ人々にとっては、考え及ばないことであろう。だが天台系統の学者においては、観音信仰と阿弥陀仏の信仰に従う人は多く、智者大師を始めほとんどの人がそうであったが、地蔵信仰に力を致した者は、全くといってよいほどいなかったといってよい。
観世音と地蔵に対する智旭の心情は、恩義無量というべきであろう。なぜならば、彼は観世音菩薩の咒力で世に生れ、仏教の信仰を与えられたにもかかわらず、十二歳の折に、儒教の程朱学派の影響で闢仏論数十篇を作った。すなわち、謗法の重罪を造作したのであるが、その危ういところで、地蔵経典がたちまち彼の前にあらわれて、彼を再び仏教の信仰に戻らせた。この点について、智旭が自ら述べているところを、