明末中國佛教の研究 190


一切過去、所引未盡、悪不善業、無暇悪趣、諸有諸趣、生死諸業、皆能除滅、令盡無餘、不受果報。(大正一三巻七七五頁AーB)

と語っている(11)。その「所引未尽」並びに「不受果報」とは、「引業」の総報がなお終っていない限り、必ず受報があるのであるが、地蔵菩薩の法門を頼るなら、どんなに重い罪の「定業」もたは「引業」にしても、一切を消滅してしまうというのである。

さて、智旭の地蔵信仰は、最初に『地蔵本願経』の孝道思想から端を発し(12)、遂に彼の謗法罪を懺悔するために、地蔵の滅罪思想を崇拝した。ことに智旭は、卜筮の思想に対して、もとより関心を有していたので、占ト法門が説かれる地蔵経典の『占察善悪業報経』は、彼の最も重要な信仰対象であった。地蔵信仰に関する智旭の資料を抄録してみるならば、このことはより明確となるであろう。

この三つの資料にみられるものは、孝道思想と業障思想を地蔵信仰と結合する考え方である。インド仏教の中にも、孝道思想はないでもない(13)が、中国仏教のような孝道経典を作るまでには至らなかった。『梵網経』の釈尊(14)、