明末中國佛教の研究 193


これは唯心論の立場から出てきた理論である。また天台教学の一心三観の思想から見るならば、衆生一念心の当体は、すなわち清浄な法身・般若・解脱の三徳秘蔵であるが、自分自身が煩悩の迷惑にかかっているので、その清浄の自心を忘失して、却ってその幻有の煩悩心に執着して、輪廻転生の業報の体になることを定業と名づけるのである。こうした定業は、たとえ仏の神通力であろうとも、救う手懸りがない。したがって、地蔵菩薩のロからその『滅定業咒』を説かしめ、もし衆生がこれを信じて誦持したならば、その煩悩心を漸々に清めて転換し、それによって衆生が真実心を回復したときに、この定業を消減することができるとするのである。

ところが智旭は、『占察経』を崇敬し、この経典に滅罪の方法に関して、懺法・定慧・持名の三つの段階があるとしている。これについての智旭の見解は次の文に見られる。

(占察)経曰、悪業多厚者、不得卽學定慧、當先修懺法(1)。…(中略)…又曰、雖學信解、修唯心識觀、真如實觀、而善根業薄、未能進趨。諸悪煩惱、不得漸伏。其心疑怯、怖畏、及種種障礙。應一切時中、常勤誦我之名字(2)。(「化持地蔵菩薩名号縁起」\宗論六ノ一巻八頁)

『占察経』の修行方法は、唯心識観と真如実観との両種の観行であるが、「悪業多厚」のものは、直にこの両種の観行に入ることは無理なので、一応まず懺法を修してから、後に定と慧の観行を学ぶこととなるのである。また、「善根業薄」のものにおいては、諸の悪煩悩を抑えることが難しいので、まさに一切の時と一切の処において、常に地蔵菩薩の名号を誦持することから始めるべきであるとされるので、観行の難しさははっきりしている。智旭は罪報感の強い人であったから、「教観並重」と「随文入観」という論旨が、彼の著述の中によくみられるが、彼自身の仏教生活の実践としては、むしろ禅観よりも懺法および持名に力を尽しているのである。