明末中國佛教の研究 196

金光明最勝懺儀三回、浄土懺二回、それに梵網懺・慈悲水懺・慈悲道場懺法は各一回である。換言すれば、観音信仰の大悲懺法は一位であり、地蔵信仰の占察経行法は二位を占めている。智旭が懺法を大事にすることは、確かに『占察経』の影響であるが、彼が『占察経』を始めて読んだのは、三十三歳の冬であった(3)。したがって、彼の礼懺記録にある三十三歳の春の杭州武林山の蓮居庵での大悲咒は、『占察経』の思想とは関連はない。恐らく智旭は観音大悲咒の誦持をしてから、一歩を進めて大悲懺を礼拝したのであろう。なぜなら、智旭の持咒の記録は、早くも彼の三十一歳のときからみられるからである(4)。さらに、智旭は三十二歳のときに、天台に私淑することを決意したのであって、四明知礼の『大悲犠』並びに天台智顗の『金光明懺』を重視してこれを実践したことは、その立場からすれば当然のことであろう。

1 『占察善悪業報経』巻上に、「若悪業多厚者、不得卽学禅定・智慧、応当先修懺悔之法。」とある。\大正一七巻九〇三頁C

2 『占察善悪業報経』巻下に、「若人雖学如是信解、而善根業薄、未能進趣、諸悪煩悩、不得漸伏、其心疑怯、畏堕三悪道、生八難処。畏不常値仏菩薩等、不得供養、聴受正法。畏菩提行難可成就。有如此疑怖及種種障礙等者、応於一切時・一切処、常勤誦念我之名字。」とある\大正一七巻九〇八頁C

3 智旭「占察経義疏跋」に、「憶辛未(1631年三十三歳)冬、寓北天目、有徐雨海居士法名弘鎧、向予説此占察妙典、予乃倩人、特往雲棲、請 得書本。」と記している。\卍続三五巻九九頁B

4 「持咒先白文」参照。\宗論一ノ一巻八頁