明末中國佛教の研究 197

二 天台宗と懺法およびその源流


懺法とは、もとより律儀の一部であるが、それは梵語でいう羯磨(Karma)の一種類である。授戒・説戒・懺重・治罪・滅諍などの僧団行事は、すべて羯磨という。したがって、羯磨の中に懺法も含まれているわけであるが、単に懺罪と除悪の行事としては、別に Ksamayati という言葉が使われている。旧訳の経律においては、この Ksa-mayati を「懺悔」と訳しており、道宣の『四分律比丘戒本疏』巻第一の下、および知礼の『金光明経文句』巻第三も、旧訳の「懺悔」二字を襲用して解釈したが、義浄の『南海寄帰内法伝』巻第二並び(1)に『根本説一切有部毘奈耶』巻第十五の註(2)には、いずれも Ksamayati を「懺悔」の二字に翻訳することに対して、批判的な見解がみられる。義浄の理解によれば、梵語の Ksamayati(懺摩)とは、容恕と容忍を求める義、または首謝の義であり、追懺の義がないから、懺悔と翻訳することはかなり不当なことであると論断している。追悔とはすなわち説罪の意味であるが、説罪という梵語は Ksamayati ではなく、apatti desana(阿鉢底提舎那)である(3)から、義浄の所論は、正鵠を得たものである。したがって、諸経律に見る「懺悔」という用語の場合は、必ずしもすべてが Ksamayati の対訳ではないことを察しなければならない。

礼懺の方法または礼懺の儀軌に関しては、唐の道宣述『四分律刪補随機羯磨疏』巻第四の「懺六聚法篇」によれば、次の如くである。すなわち、懺を行ぜんと欲するときは、須らく五縁を具すべし、五縁とは、一に十方の仏菩薩等を請し、二に経咒を誦し、三に己が罪名を説き、四に誓言を立て、五に教の如く証を明らむと言う。実際には、これは大乗経律を参考にしてのちに成立したものといえるであろう。もとより小乗律の懺罪儀則は、