明末中國佛教の研究 198

ただ所犯の篇聚の罪名軽重によって、それぞれ一人比丘・三人僧・四人僧・ないし二十人僧の前で、別々に説罪懺除するにすぎない。三人僧以上の場合は衆法懺といい、一人比丘に対するものを対首懺といい、極微細の威儀戒を犯した場合には、独り己心を責めるのみでも可とされるが、これは心念懺という。

中国においては、小乗懺は全く行なわれておらず(4)、ほとんどが大乗懺法である。中国では天台系の著書中に、比較的に懺法に関するものが多い。大乗懺法とは、『摩訶止観』巻第二の上によると、事懺と理懺との二種類があり、事懺はまた随事分別懺悔とも名づけられる。すなわち、事儀であって、礼拝・称唱・讃誦・仏菩薩の聖容を観想存念することである。理懺はまた観察実相懺悔ともいわれる。すなわち、過去と現世に造作した一切の罪業はみな心から生起したものであるから、自心の本性空寂を了せば、一切の罪相もまた同じく空寂となる。これをみれば真の滅定業は、理懺による功能であることが明らかとなるであろう。

なお、智者大師(五三八ー五九七)の『禅波羅蜜次第法門』巻第二等(5)には、作法懺・取相懺・無生懺の三種懺悔法(6)が示されており、作法懺と取相懺は事懺に属し、無生懺は理懺に属するのである。『摩訶止観』巻第二の上にみられる事懺は苦道と業道を懺することであり、理懺は煩悩道を懺することである(7)。また同書の巻第四の上には、小乗は懺法なし(8)といわれており、同書の巻第七の下は、ことに五悔を強調しているが、五悔とは、懺悔・勧請・随喜・回向・発願であり、この五悔を行なえば、法華三昧の助行となる故、初め五品位より終り等覚に至るまで、位位にみなこの五悔方便を勤行し、もって観門を助開すべしと説いている。同書はまた日夜六時にこの五悔方便を行じて、大悪業罪を破し、勧請して謗法罪を破し、随喜して嫉妬罪を破し、回向して諸有を破せば、所得の功徳は無限無量であるとも述べている(8)。したがって、