明末中國佛教の研究 199

智者大師は『法華三昧行儀』・『方等三昧行法』・並びにすでに闕迭した『金光明懺儀』・『般舟証相行法』・『修三昧常行法』など多くの懺法書を作った(9)。よって中国仏教の懺法書の祖に智顗を擬することは適切であると思われる。また荊渓湛然(七一一ー七八二)には、『授菩薩戒儀』がある。ことに宋の慈雲遵式(九六四ー一〇三二)には、『金光明懺法補助儀』。『請観音懺儀』。『往生浄土懺儀』・『熾盛光懺儀』・『法華三昧懺儀』・『授菩薩戒儀式附授五戒法』・および闕迭した『小弥陀懺儀』などがある。さらに四明知礼(九六〇ー一〇二八)には、『礼法華経儀式』・『修懺要旨』・『光明懺儀』・『大悲懺』・『準提懺』・『出像大悲懺法』がある。また大石志磐の『水陸修齋儀軌』も宋代天台宗の産物ではあるが、これも懺法書である。したがって、現存の懺法書類においては、そのほとんどが天台系統のものといい得るであろう。

なお田島徳音氏が触れられた仏教の懺法が道教風の傾向を通じて盛行したという問題には、誤解を生じやすい点があり、左のことについて注意すべきである。すなわち、仏教においては原始仏教時代から、すでに羯磨法は行なわれており、さらに羯磨法が転換されて、密教の儀軌になるのは、インド教の咒法儀軌 tantra に影響されたものであるということである。中国では周秦以前の時代から、すでに政教合一の社会形態の中に、天地四時の大祭を行なってきたことは、『礼記』中に記録されている。しかし、道教の最初の基礎的な儀軌書は、寇謙之(三六三ー四四八)の『雲中音誦新科之誡』(四一四年作成)二十巻であり、これは『礼記』にみられるような素朴な祭儀ではない。また仏教の羯磨法の中国伝訳の最上限年代を点検してみると、曹魏の天竺三蔵康僧鎧が、嘉平四年(二五二)に訳出した『曇無徳律部雑羯磨』一巻がある。たとえ、康僧鎧訳の説を疑問としても(10)、まだ曹魏正元元年(二五四)に安息沙門曇諦の訳出になる『羯磨』一巻がある。寇謙之の『新科之誡』より百六十年も溯るものである。後世の道教の『齋醮科儀』は、北魏時代の『新科之誡』とは異なっており、