伝説によれば、晩年には、やっと仏教の信仰に傾き、彼が早歳にして著わした反仏論に対しては、彼自身も頗る残念なことだと思っていたと伝えられる。それ故、現存の『居士分燈録』巻下(3)、および『名公法喜志』巻第四等(4)は、共に朱熹を道謙禅師の法嗣にしている。このために智旭は、宋儒をつまらない庸儒・腐儒と痛斥しながら、内心にはやや安慰感を保ったのであろう。

もう一人の宋代儒者である陸象山に対する智旭の見解は、さきに紹介したように、陸氏の悟後にある名言に、歓迎の意を示しているが、実際には「儒釈宗伝竊議」に、

南宋陸象山、先立乎其大者、乃得孟氏心法者乎。然不信太極無極、展轉撥之。紫陽又展轉救之。吾觀撥者・救者、皆非實知周子也。(宗論五ノ三巻一五ー一六頁)

と述べているように反発もあった。智旭は周敦頤の『太極図説』に説かれる「太極本無極」という説に感心して、「真得孔顔心法者也(5)。」と絶讃しているが、陸象山は周敦頤の太極無極の宇宙本体論を信受していない。しかも、周子の「無極」説を、儒教の思想ではなくて、道教の老荘思想であると指摘している(6)。それ故智旭は、陸象山の思想はただ孟子の「心法」は得ていたが、孔子と顔回の「心法」までは得るに至っていないではないかと酷評している(7)。 そのうえ、智旭は王陽明の「知行合一」説を好み、またこれを朱熹と陸象山と共に並べて、「知行分張、朱陸競異」と論評をしている(8)。智旭が考えた儒家の正統思想とは、いわゆる「孔顔心法」という孔子とその弟子顔回の思想であり、宋儒においては周敦頤しかこの正統道脈を受けている人はいない。そして孟子の心法な得た陸象山に至るまでの宋儒のすべての人々は、仏教々義のみならず、正統の儒教々理さえも理解せずに排仏を論じている、と断定したのである。