陽明学の中心思想は、「致良知」および「知行合一」の説であり、致良知とは、もとより「格物致知」の理論から出たもので、朱熹の立場でいえば、外物と内心の物心二元論であるので、どうしても我々の心と天地万物とは一体同貫の境域にはならない。したがって、陽明学は、さらに仏教の真如心または如来蔵の真常心を受け入れて、内心と外物を良知の知とするのであるが、この知には染汚と清浄の二面がある。染汚の一面は「人欲」をいい、清浄の一面は「天理」をいうが、人欲・天理いずれもその「知」と不可分の全体的な存在である。小人の場合は、天理が人欲に蒙被されているので、その良知心の顕現することは割合に難かしい。君子ことに聖人の場合は、人欲を抑え、ないし除去しているから、天理の良知心は自然にあらわれてくる。この天理とは、すなわち仏教の清浄如来蔵であり、人欲とは、すなわち仏教の染汚如来蔵である。我々が善を修することは、すなわち「存養天理而致良知」の工夫なのである。そのために、陽明学は「聖人之道、吾性自足、不仮外求。」と主張している。

換言すれば、聖なる道は、我々自分自身の内在にすべて備えられているのであるから、外在の自然界に求めなのは不用であるという。これを考察すると、『起信論』の如来蔵思想、いわゆる生滅と不生滅とを和合して如来蔵になるという観点とを比較すれば全く一致するといえるであろう。したがって、陽明の良知心は、『起信論』の不生不滅の真常真如心であるといえよう。たとえば、『明儒学案』の「姚江学案」に、陽明思想を紹介して、

先生以聖人之學、心學也、心卽理也。故不得不言、致吾心良知之天理于事事物物、則事事物物皆得真理。夫以知識為知、則軽浮而不實、故必以力行為工夫。夫良知感應神速、無有等待、本心之明、卽知不欺。本心之明、卽行也。不得不言、知行合一。此其立言之大旨、不出于是。

と述べているところに見られる陽明思想の「心学」とは、すなわち理学であり、理とは天生または良知の知である。