明末中國佛教の研究 203

大悲懺


『大悲懺』はつぶさには、『千手千眼大悲咒行法』と名づけられるもので、唐の永徽年間(六五〇ー六五五)伽梵達磨三蔵が訳出した『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』一巻によって、四明知礼がこれを三昧行法として、十科に分けて作ったものである。田島徳音氏はこれに対して、「この行法も亦一般の支那国民が、願求する富饒・求官・除病の三益と併せて、善友を得、浄土に往生する利益を獲得する方便行なりということである。道教風の傾向を通じて、天台宗の止観行を宣揚せんと企て、その本尊に観音を奉じた」と論述している(7)。、いうまでもなく、唐以降、密教経典が相い次いで訳出された後に、観音菩薩が民間信仰に入ったことは確実であるが、明朝に至って、この『千手千眼大悲心陀羅尼経』がより一層盛んに流行した原因は、当時の君主の提唱もその主要原因の一つであると思われる。なぜならば、大正蔵経第二十巻に収めるこの経の前に、永楽九年(一四一一)の『御製大悲総持経咒序』があり、この御製序の作者は、もちろん明の成祖皇帝であると推察される。一般民間人が、この経典の行法によって、富饒・求官・除病の三益を願求したことは相違ないが、智旭においては、むしろ浄土往生を願求したうえに、滅罪を求めるはずであり、これは民間仏教の観音信仰と智旭の観音信仰との異なるところである。いわばこの経典の中には、もちろん現世の三益は説かれているが、滅罪思想もまた次のように明示されている。

一切罪障、悉皆消滅、一切十悪五逆・謗人・謗法・破齋・破戒・破塔・壊寺・偷僧祇物・汚浄梵行、如是等一切悪業重罪、悉皆滅盡。(大正二〇巻一〇七頁A)

どのような重罪であっても、もし『大悲心咒』を誦持すれば必ずそれは消滅してしまう。このような大悲心咒に合ったのは、罪報感の強い智旭に対して、なによりも感慨無量のことであったであろう。智旭が観音と地蔵とを信仰する原因は、ただ一つ、すなわち滅罪のためである。そのため、観音と地蔵を併せて称讃することはしばしばであり、