明末中國佛教の研究 205

雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)はすでに亡くなっており、彼はただ祩宏の像の前で、比丘戒の受戒儀式をしたのであって、戒律の規則からいえば、このような受戒方式では、決して本当の比丘戒体を受けることはできないはずである(9)。それ故、智旭は全部の律蔵を研究したのちに、三十五歳の秋、比丘の身分を自ら捨て、四十六歳のときにはさらに沙弥の身分をも捨てたのである。結局、彼は『占察経』の懺法によって、比丘戒の清浄輪相をえたのであり、『占察経』の懺法に頼らなければ、末世の仏教徒としては、清浄の比丘戒を求得することはできないと主張した(10)。したがって、『占察経行法』の修行回数が『大悲懺』より少ないとはいっても、智旭の仏教生活の実践におけるその比重は、やはり『占察経行法』の方がより勝っているとみるべきであろう。

金光明最勝懺儀


これは宋の四明知礼(九六〇ー一〇二八)が、『金光明経』によって編述した懺法である。とくに本経の『功徳天品』(新訳『大吉祥天女品』)の説に準拠して立てた懺悔得脱の行儀作法であって、『国清百録』に収められている天台智顗の『金光明懺法』を補足集成したものらしい懺法に闕けた讃歎・五悔等が加説されているが、慈雲遵式(九六四ー一〇三二)の『金光明懺法補助儀』と比較してみるならば、稍略説化されている。また義浄訳の『最勝王経』の咒を採用したことによって、「最勝」の二字を加えたのである。これは智顗と遵式とが共に曇無讖訳の『功徳天品』の咒を用いたことと異なるところである。

なお『金光明経』の内容は、『華厳経』の法身、『般若経』の智慧、『大涅集経』の四徳などの諸経の宗旨を通有して示したものである。また曇無讖訳四巻本と唐義浄訳十巻本の両者には共に懺罪思想の『懺悔品』および放生思想の『流水長者子品』があり、智者大師はその『懺悔品』の思想によって『金光明懺法』を集成し、『流水長者子品』の思想によって、放生運動に力を尽したのである(11)。