明末中國佛教の研究 206

放生思想は元来『梵網経』巻下の戒殺生と断肉食の思想から発展して、斉梁の時代の肉食の戒除運動を惹起し、それに『金光明経』の放生思想が合流して、智者大師が放生池の設置に努力をするなどの結果を生んだのである。そして四明知礼も『放生文』を撰述し、元朝においては、君主の勅命で『金光明経』を書写せしめたことが誌伝にみられ、明代にいたって、雲棲祩宏をはじめ、達観真可・憨山徳清・蕅益智旭等の放生運動に発展したみられる(12)。

要約すれば『金光明懺法』は、諸大乗経を通して、護国・滅罪・放生・捨身などの教えを説く経典から生まれた懺法である。智旭にとっては、特に義浄訳の十巻本に「滅罪障品」があって、彼の地蔵信仰の滅罪思想と一致しており、そのために彼は義浄訳本に依従する知礼の『金光明最勝懺儀』を実践かつ講義したのであろう。

往生浄土懺儀


この懺法の撰述者である慈雲遵式が自ら述べるところによって知られるのは、これは大本の『無量寿経』および阿弥陀仏の極楽浄土を称讃する諸大乗経から採択したものを編集して、懺法になしたということである(13)。遵式の浄土教義には、決疑と行願の二門があり、この懺儀は行願門に属するのである。その要旨は滅罪除障の功徳を現じて、念仏三昧に浸ることである。これは智旭の思想と極めて相応している。一言でいえば、智旭の懺法実践の目的は、滅罪思想に基づいて浄土往生に到るためであり、彼自身のためだけはなく、さらに僧俗同道・君・親・国・並びに一切の衆生のために、滅罪除障と離苦得楽を願求することである。

1 『慈悲道場懺法』の著作者について、大正蔵経四十五巻に、「梁諸大法師集撰」と記されているが、智旭の『閲蔵知津』巻四十二は、「拠続僧伝興福篇云、梁武懺悔六根門、真観広作慈悲懺。或云二巻、慧式卽真観師名。」と論述している。

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3 『修懺要旨』は、『四明尊者教行録』巻二に収録されている。\大正四六巻八六八頁Aー八六九頁B

4 宗論七ノ四巻一二頁

5 註の①を参照。また『慈悲道場懺法』の製作因縁については次のようである。すなわち初に斉の武帝の永明年間(四八三―四九三)に、竟陵文宣王蕭子良が、『浄住子』二十巻を撰じ、その後梁の天監年間(五〇二ー五一九)に、ある具徳の沙門がその繁蕪を刪去し、その枢要を撮り、かつ諸経の妙語を採入し、改めて十巻の本懺法を集成したのである。

6 宗論七ノ四巻一三頁

7 『仏書解説大辞典』六巻三二六頁A参照。

8 『大仏頂首楞厳経』巻六には観音菩薩の三十二種の化身が説かれ、『法華経』の普門品には観音菩薩の三十三身が叙述されてい る。

9 ①宗論六ノ一巻五頁、②宗論一ノ二巻一二頁

10 『占察経疏自跋』に、「予念末世、欲得浄戒、捨占察輪相之法、更無別塗」とある。\宗論七ノ二巻八頁

11 『智者大師別伝』。\大正五〇巻一九三頁C

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13 大正四七巻四九〇頁C