明末中國佛教の研究 215

その效験を求めるならば、鬼神の果報をもたらす恐れがある。ただし、慈悲の心と念仏の心で咒を読誦すれば、将来の如来種智を成ずるのである。したがって、散乱の心をもって真言神咒を唱えた場合、如何なる果報を招くであろうかということは、この経典に明示されていないが、よい果報にならないことは十分推測しうるであろうというのである。これは智旭が密教経典を閲覧する以前には、恐らくわからなかったことであり、これを認識した後に、彼は『閲蔵知津』巻第十一に、次の見解を述べている。

但密壇儀軌、須有師承、設或輒自結印持明、便名盗法、招愆不小。今此道失傳久矣。典籍僅存、何容僭儀。

中国における密教の伝承は、唐の武宗時代のいわゆる会昌法難によって断滅した後、日本へ流出したため、中国本土ではその後跡を絶ってしまい、密教経典を閲読する人さえいなかったといわれる。智旭のようにすべての密教典籍を閲覧した人は、当時としては極めて珍しい。恐らく智旭は閲蔵指導書である『閲蔵知津と『法海観瀾』の二書を作成するために、わざわざ密教典籍を閲覧したのであって、懺悔行法と真言明咒を論ずるところで、しばしば密教経典について触れているのはそうした理由によるものと思う。

密教の師承重視を認識してからの智旭は、無断で印契を結んだり、あるいは明咒を読誦したりすることは、盗法の罪を作ることであり、大きな誤りを犯すことになると判断せざるをえなかった。しかも残念なことに、密教の典籍は残っていても、その師承伝統をつづける人はもはや断絶していたので、密壇儀軌を行なうことできなくなっていたのである。このために晩年の智旭は、師承伝持の観念に対して批判をする場合にも(9)、密教の師承規制に対してはなんの反論もしなかった。そして、四十六歳以後の智旭は、密教のことを円頓教として尊敬したが(10)、密咒を唱えることには、極めて慎重な態度を示したのであった。その後の智旭は、専ら結壇礼懺の行に力を注入し、