明末中國佛教の研究 219

伝燈につづいて智旭がこれら先輩の著述を改めて、六巻の『選仏譜』を撰述した。しかし、智旭の著作の中には、この『選仏譜』の占ト方法を使用した記録は極めて少い。恐らくこの方法の使用法が少しく難かしすぎるせいではないかと思う。

さて、智旭の資料におけるト筮信仰の記載は、次の箇所にそれぞれみられる。まず二十六歳の折に、

男憶二十一、至星家、問母壽。言六十二三、必有節限。逐於佛前、立深誓、唯願減算、薄我功名、必翼母臻上壽(「寄母」\宗論五ノ一巻一頁)

と述べている。これは智旭が二十一歳の折にあったことで、この頃、彼はまだ出家することまで考えてはいないが、すでに仏教の信者となっていた。そして、儒教の孝親思想に基づいて仏教を信仰しながら、占星術のト筮信仰をも信じていたのである。彼は母親の寿命を聞くために、星象家を訪ね、その結果、六十二・三歳頃に必ず寿命の節限があると知らされる。智旭は仏像の前で深く願求して、自身の命を減じて、なお自身の功誉を薄めて、もって母親の長生を祈っている。これは純粋な仏教思想ではないが、ト筮信仰に道教の延命信仰を加え、さらに儒教の孝道思想の深い志を合糅したことをうかがわせるものである。

つぎに、三十一歳の折には、次のような、二つのト筮に関する記載、すなわち、①「壽兄得廣参博訪鬮賦贈」(宗論一〇ノ九巻三頁)および②「惺谷壽得出家鬮將往博山薙髪二首」(宗論一〇ノ一巻三頁)がある。これはいずれも盟友である惺谷道寿(一五八三ー一六三一)の出家または参訪に際して、行なわれたト筮信仰の行為である。

さらに、三十二歳の折には、

三十二歳、擬註梵網、作四鬮、問佛。一曰宗賢首、二曰宗天臺、三曰宗慈恩、四曰自立宗。頻拈、得台宗鬮。