(宗論巻首二頁)

という記載もある。これは智旭の自伝中に明示されていることであるが、彼は三十二歳までは、仏教思想において、禅と浄土と戒律に重点を置いて研修している。反面、教学思想については、やや天台宗の方面に敬意を有している(3)が決定的に天台宗の立場を取ることはまだ考えていなかった。それ故、『梵網経』を註釈するにあたって、その註釈方法を採択しようと、賢首・天台・法相のいずれを取るべきかと考えるうちに、かなりの迷いを生じた。結局、彼はト筮信仰の拈鬮というおみくじ取りの方法で、天台に私淑する決断を行なったのである。

また、三十五歳には、

而自受具、心雖殷重、佛制未周、爰作八鬮、虔問三寶。(宗論一ノ二巻一二頁)

という記載がある。これは智旭の「前安居日供鬮文」という願文中に記されているものである。彼は戒体の問題で、四十七歳までの二十有余年の間悩まされている。『重治毘尼事義集要』の序によると、彼は二十四歳で出家、二十五歳の冬、雲棲祩宏の像の前で比丘戒を受け、二十六歳の時、再び祩宏の像の前で菩薩戒を受けている(4)が、菩薩戒は別として、比丘戒であるならば、小乗の律制によるべきで、このような受戒式では決して戒体を得られているとはいえない。さらに、彼は三十五歳夏安居終了の日、八つの鬮―おみくじを作って、仏の像の前に占う方式で、その戒体の有無や、どんな戒体を得ているかという点を決疑した。その結果は、別文の『自恣日枯鬮文』(5)および「退戒縁起並嘱語」(6)の文に、みられる通り、「菩薩沙弥の鬮'を拈得した」と告白している。

なお、三十八歳の折には、

又然臂香四炷、重復供養法界三寶、及地藏大士、求決所疑。至誠占於第三輪相。一者依『占察法』、先悔罪障。