二者住阿蘭若、先修禪定。三者著述宏経、先修観智。四者植諸善本、行衆三昧。(「滅定業真言咒壇一百十日円満然香懺願文」\絶餘編一巻二二頁)(7)

という記載がある。これは智旭の九華山隠遁時代の出来事である。当時の彼はすでに自ら比丘の身分を捨棄し、未来の見通しについては茫然としており、『占察行法』によって懺罪求戒をするか、あるいは一人で阿蘭若(aranya)に専ら禅定を修するか、あるいは著述と宏経の布教活動をするか、あるいはただ一切の福業善行に従事するかなど、種々の思案の結果、やはりまた『占察経』の第三種輪相の占ト方法によって、彼の生き方を決めようとしたのである。その結果、「著述宏経、先修観智」の鬮を拈得した(8)。

この頃、つまり二十八歳で母親をなくしてから、三十八歳の九華山の隠遁生活の最後にかけての十か年の間の智旭は、精神状況が甚だ不安定であったといえる。たとえば、「長於著述」(9)という自己省察の言葉があるのに、二十八歳の夏には、喪母の哀痛を受けて、「焚棄筆硯、矢往深山」(10)という決心をした。そして三十八歳に至るまでの智旭は、『毘尼事義』・『占察行法』・『梵網懺法』・『盂蘭盆経新疏』のほかに、著すところの著述は僅かに短篇の願文と雑文しかない。幸いにして、三十八歳になってから、ト筮信仰の占いの力によって、彼の著述への願望はようやく回復した。

最後に、四十六歳の折には、

勤禮千佛萬佛、及占察行法、幸蒙諸佛菩薩、大慈大悲、於今年正月元旦、錫以清浄輪相。稍自安慰。(「祖堂結大悲壇懺文」\宗論一ノ四巻七ー八頁)

という記載がある。『占察行法』を修して、罪障を懺悔除滅してから、