当然なことであると思う。智旭は血書に賛成する理由について、「寄南開士血書華厳経跋」に、論述しているので、次にこれを抄録してみよう。

血書一法、攝歸普賢行海、條例梵網戒章。特所以然之故、未有掲示。致狂慧之徒、蔑為有相。夫無始生死根本、莫甚身見。出世妙法、莫先摧破薩迦耶山。薩迦邪見破、則生死輪永息。是名尊重正法、是名以法供養如來。法華・楞嚴、深歎然臂指、及然香功徳、亦以此耳。(宗論七ノ一巻五頁)

この中にいう「普賢行海」とは、四十巻本『華厳経』の「入不思議解脱境界普賢行願品」に説かれた「刺血為墨、書写経典」(1)ということであり、「梵網戒章」とは、『梵網経』巻上に示された「刺血為墨、以髄為水、書写仏戒」(2)ということを指すのである。しかし、血書について、その理由を明示する経典はなかったので、当時一般にはよく理解できなかったかもしれないが、智旭はこれを理論的に解明した。すなわち、衆生の身見を破除するために設置した修行の法門であって、『華厳』と『梵網』の血書法門は、『法華』と『楞厳』の焼身法門(3)と共に、「尊重正法」または「以法供養」(4)の菩薩行とするわけで、生死輪廻の活動を止めるためのことである。実は明末の仏教界において、血書を実践した人物は智旭だけではない。たとえば紫柏真可(一五四三ー一六〇三)もその一人であり、『紫柏尊者全集』巻首は、明神宗の万暦三年(一五七五)、真可が一碗ほどの臂血を刺出して、次のような聯句を書いたと記している。

若不究心、坐禪徒增業苦。如能護念、罵佛猶益真修。(卍続一二六巻三一四頁C)

なお『紫柏尊者全集』巻第十四と第十五には、「麟禅人刺血脆書華厳経序」および「跋麟禅人血書華厳経」という血書に関する文章が収められている。

次に憨山徳清(一五四六ー一六二三)の伝記によると、万暦五年(一五七七)、