徳清は南嶽慧思禅師の『立誓願文』を読んだ後に、自ら『華厳経』を血書している(5)。その他徳清の『憨山大師夢遊全集』巻第三十一に、血書に関する左のような六点の記録がある(6)。

この中の瑞之麟禅人という人は、恐らく『紫柏全集』の麟禅人と同一人物であろう。智旭の著作には、当時の血書実践の記録として、左のような十三点(7)がみられる。

このような明末の真可・徳清・智旭の三人の資料から拾い出した件数ほ、この三人を除いてもなお二十一点ある。血書の経典を分類すると、『華厳経』八人、『法華経』も八人、『金剛般若経』三人、『梵網経』と『受戒文』各一人である。『華厳』と『法華』二経が他の経典に比して多い原因の一つは明代において最も盛行した仏典が、『華厳』と『法華』の二経だからであり、もう一つの原因は四十巻本の『華厳経』が、血書信仰を鼓吹し、『法華経』のが、焼身供養を絶讃していたためであろう。いずれも肉体を痛めつけることをもって、正法に対する最高の虔敬心を表わすとするのである。次に当時の中国仏教は、ほとんど禅者の仏教であるから、禅宗に属する『金剛般若経』が、その第二位になっており、第三位
年令血書事件資料根拠
26敬然臂香、刺舌血、白母親大人。宗論五ノ一巻一頁
30戊辰春、刺舌端血、留別諸友。宗論一〇ノ一巻三頁
刺舌血、書大乗経律。宗論一ノ一巻六頁
戊辰冬、刺血書一「然香供師伯文」、寄至台嶺。宗論五ノ二巻一三頁
31為雪航檝公講律、刺血書願文。宗論一ノ一巻七-八頁
32然臂香、刺舌血、致惺谷書。宗論六ノ一巻五頁