陽明を仏教の友好者に引き当てたのであろう。智旭の文献の中に、陽明を讃許している点は、次の三カ所に認められる。すなわち、

と述べられている。これらを見ると智旭に認められたのは、やはり陽明の「致良知」の三字であり、智旭は、陽明の「良知」という心学は確かに王陽明の自内証で証悟したものであり、孔子とその弟子顔回が、王陽明の時代から二千年ほど前に、すでに示したものであると考えた。実に陽明の思想上の基礎は、孔・顔の説に立脚していたが、その「致良知」という説の新発見の基は、仏教の影響を受けたと言わなければならない。だが、この点について智旭は明言をしていない。

ところで、陽明は対仏批判を絶対にしなかったというのではない(10)。朱熹のように露骨な指摘をしているところがないということである。この点については、すでに荒木見悟氏が「禅僧玉芝法聚と陽明学派」という論文に述べられている(11)。智旭もこの点を知っていたが、却って陽明の闢仏に対して、陽明に代って弁護をしている。このことは彼の「閲陽明全集畢偶書二則」の中に、次の辞が見られることから知られる。

或病陽明、有時闢佛、疑其未忘門庭。蓋未論其世、未設身處其地耳。鳴呼、繼陽明起請大儒、無不酔心佛乗。