明末中國佛教の研究 24

夫非錬酥為酒之功也哉。(宗論四ノ三巻一八頁)

このように陽明が対仏批判をしていた点も実際にあったことが知られるが、智旭はこれを許すべきことだと主張している。なんとなれば、陽明の時代、つまりその時代背景に鑑みて、儒教者が排仏を論ずるのはたとえ本気ではなくても、やむをえないことであろう。陽明門下の大儒者達が、仏教信仰を受け入れたのは事実であり、もし陽明が真剣に排仏論を展開したとしたら、陽明学派の人々の間に仏教の受容はあり得ないはずである。そして、実際には、有名な禅僧玉芝法聚(一四九二ー一五六三)は陽明の学生であり、また、明末の名居士である李卓吾(一五二七ー一六〇二)と焦弱侯(一五四〇ー一六二〇)の二人も共に陽明の再伝の弟子であった。

1 荒木見悟著『明代思想研究』(昭和四十七年創文社初版発行)の三五四ー三七一頁「智旭思想と陽明学」参考。

2 宗論四ノ二巻九頁。

3 明代朱時恩輯『居士分燈録』\卍続一四七巻参照。

4 時代夏樹芳輯『名公法喜志』\卍続一五〇巻参照。

5 「儒釈宗伝竊議」\宗論五ノ三巻一五頁。

6 『陸象山全集』にある「与朱元晦書」参照。

7 智旭にとって儒教の聖人となる人は、ただ孔子と顔回の二人のみである。

8 「示范得先」の法語参照\宗論二ノ五巻一頁。

9 「示李剖藩」の法語参照\宗論二ノ四巻一四頁。

10 常盤大定氏の『支那における仏教と儒教道教』四六六ー四七〇頁参照。

11 『明代思想研究』八一頁