明末中國佛教の研究 231

三 仏教における捨身思想


血書・焼身・燃臂・燃指・燃頂などの行は、原始仏教の立場に立つならば、まさに仏の教えることではない。原始仏教の八正道は楽にあらず、苦にあらずといういわゆる中道的生き方であり、肉体をやすらかに正しい暮しをしていくことであるが、仏本生譚などの物語や寓語(1)が、発達してから、「為法亡躯」という捨身説(2)があらわれる。さきに論じた『華厳』・『法華』・『梵網』・『楞厳』の諸経に説かれた苦行思想は、みなこの捨身説から流れ出たものであると思われる。

中国系の大乗仏教においては、この捨身思想に基づく、亡身と遺身の実例は数え切れない程に多い。『高僧伝』類には、亡身篇と遺身篇があり(3)、『弘賛法華伝』巻第五には同じく遺身篇があり(4)、『法苑珠林』巻第九十六には捨身篇がある(5)。韓国においては『三国遺事』巻第五に、郁面婢という娘が苦行念仏することを記している(6)。そのうち最も盛行したのは、燃頂・燃臂・燃指である、智旭自身が実践したのは、その燃頂と燃臂の両項である。

ところでこの肉体を痛めつける苦行思想は、もとより釈尊に禁止されたいわゆる戒禁取見(7)の類であるはずで、義浄(六三五ー七一三)の『南海寄帰内法伝』巻第四では、当時のインド仏教の風習について、まだ「焼身不合」という論調で述べている(8)。しかし、大乗経典、すなわち、

これらの大乗経論に記載されている捨身について検討してみると、『法華』・『金光明』・『大涅槃』の三経に叙述されているものは、本事あるいは本生の物語であるにすぎない。これに対して『智度論』・『大丈夫論』・『華厳経』・『提婆達多品』に述ベるところは、菩薩として一切種智を求得するために、たとえあらゆる外財の国・城・邑・村・財産・妻・子供、ならびに内財の肉体生命であるとも、これを惜しむことなく一切布施せよと説いているのである。

その後、『梵網経』に至ると、この捨身思想が、戒律の条文となって、捨身行為を実践しなければ、菩薩戒を犯すことになると規定している。すなわち、『梵網経』軽戒第十六条に、

後新學菩薩、有從百里・千里、來求大乗経律、應如法為説、一切苦行。若焼身・焼臂・焼指。若不焼身・焼臂・焼指、供養諸彿、非出家菩薩。乃至餓虎・狼・師子・一切餓鬼、悉應捨身肉手足、而供養之。(大正二四巻一〇〇六頁A)