明末中國佛教の研究 237

ただ「又然香」あるいは「再然香」と記された記録はより一層多い。

ここで最も注目すべきは、この燃頂と燃臂の信仰行為の年代を、その他の信仰行為と比較すると、最も長い期間行なわれていることが分わる。智旭は二十六歳の正月初三日に、「然臂香、刺舌血」の由を彼の母親に手紙で書き送っており、後に同年の十二月二十一日に、菩薩戒を禀受しているので、恐らくそれ以前に、すでに『梵網経』と『楞厳経』を崇敬していたものと思われ、ために焼身・刺血・燃香の信仰は、もはや実践の域に進んでいたのであろう。 仏教の史伝に見える焼身・焼臂・焼指・燃燈などの方法は種々である。しかし智旭に使われた方法はそれほど残酷なものではない、彼は焼臂と焼頂という言葉を使っていないが、燃臂香と燃頂香という言葉を用いている。これは腕あるいは脳天を直接に焼くことではなく、ただ少し太い線香を一度焼いたのちに消して、線香の炭にしたものを臂または脳天に載せてこれを燃やすことである。それ故、智旭のこの行為の基盤はもちろん『梵網経』であるが、彼の実践した方法は実に『楞厳経』巻第六に説かれていることに該当する。その経文の内容を左に抄録する。

若我滅後、其有比丘發心、決定修三摩提、能於如來形像之前、身然一燈、焼一指節、及於身上爇一香炷。我説是人、無始宿債、一切酬畢、長揖世間、永脱諸漏。雖未卽明無上覺路、是人於法、已決定心。若不為此捨身微因、縦成無為、還生為人、酬其宿債。(大正一九巻一三二頁B)

この経文における「若我(釈尊)滅後」という表現を考えると、捨身・焼身・燃香の苦行法門は、決して仏在世中の教えではないことがよくわかる。しかし、仏滅の後に、もし比丘が三摩提(Samadhi)を修する決意を発起すれば、なるべく如来の形像の前で、あるいは身に一燈をつけ、あるいは一節の指を焼き、あるいは身体のどの部分でもよいが、少なくとも一本の線香を燃やして供養するならば、