明末中國佛教の研究 239

出家菩薩が燃頂香の風習を実際に開始した時代は判然としない。

『梵網経』の註釈書における焼身・焼臂・焼指の思想に対する見解を調査すると、『梵網経』を註釈した人には、隋の智顗を始め、唐の明曠・法蔵・義寂・乃至明末の祩宏・智旭・庀賛・寂光等がある。その中、初発心の菩薩の焼身捨身の行為に対して反対意見がみられるのは、唐の勝荘の『菩薩戒本述記』巻第三(3)、宋の興咸の『善薩戒経疏註』巻七(4)、明末の祩宏の『菩薩戒経義疏発隠』巻第四(5)である。賛成の意見を示しているのは、唐の法蔵の『菩薩戒本疏』巻第五(6)、明末の智旭の『梵網経合註』巻第五(7)、明末の弘賛の『菩薩戒略疏』巻第四並びに巻第五(8)である。また、このことについて、『楞厳経』の経文を引拠したのは、智旭のほかにただ宋の慧因の『梵網経菩薩戒註』中巻のみである(9)。

これによってみれば、『楞厳経』の燃香説に最も早く注目したのは宋代の慧因であり、始めて実践したのは智旭ではないかと思われる。そして、明末の祩宏はこのような苦行に否定的見解を示しているから、明末にいたるまでの中国仏教における菩薩戒の受戒式の中には、必ずしも燃頂香と燃臂香の苦行が入っていない。必ずしも菩薩戒と燒香燃頂の苦行との関連はなかったと思われる。実際には智旭が燃頂香と燃臂香を唱導しているにもかかわらず、菩薩戒の受戒規則とは関連していないのである。いわば、それまでの中国仏教における菩薩戒の受戒式いわゆる『伝戒正範』の中に、燃香のことは記載されていない。その儀軌書は明末の見月読体(一六〇一ー一六七九)によって編撰されたもの(10)で、当時の菩薩戒受戒式と燃香苦行に関係のないことは明らかである。今日にいたるまでの中国の菩薩戒と燃香苦行が関連づけられたのは、多分清の時代に始まったのであろうと推定できるであろう。やはり恐らくは智旭の唱導で発展したことではないかと考えられる。