明末中國佛教の研究 241

それは全く衆生本人自身の業(Karman)によって生命の位置を浮沈することである。宿罪の説によれば、人間自らができることは真に僅かであり、すべて神の意欲によって人間の罪を懲罰あるいは赦免するのである。それ故、キリスト教の贖罪(redemption)説が起こって、信者の代りに神自身がその罪に酬償して、信者を赦免するのである。したがって、罪という説が、仏教にあったかどうかを研究すれば、非常に興味深いことであると思う。少なくとも梵語の中に、罪という単語はなさそうであるが、a-pattiを罪・罪咎・有罪・過失・有犯などに漢訳しており、その原義は出来事・招くことであり、例せば不運を招くことであるという(1)。中国の古典では、過失または法律を犯すことを罪過というので、仏典を漢訳したときも、法性の理に違い、または禁戒に触れた行為によって、不運の苦報を招くべきことを罪と訳したのであると思われる。よって『毘婆沙論』巻第百十五に、次のような三種大罪の説がある。

或有説者、罪有三種、一業、二煩悩、三悪行。業中意業為大罪、煩悩中邪見為大罪、悪行中破僧・虚誑語為大罪。復有説者、惱亂大衆故、意業為大罪。滅一切善根故、邪見爲大罪。能感大苦異熟果故、破僧・虚誑語爲大罪。(大正二七巻六〇一頁A)

このような業・煩悩・悪行の三種大罪の説は、かなり進んだ思想であると考えられる(2)。しかし、「滅一切善根」とか、「能感大苦異熟果」という説もまた不運を招くことにあたるのであろう。

さて、仏教における最初の罪業説は、恐らく戒律から伝えられたものであろう。たとえば、律蔵の中に、七聚の罪行と五篇の罪名がある。五篇の罪名の中に、波羅夷(Parajika)に触れれば、除罪する方法はなく、必ず僧団から追放を受けなければならないが、その他の僧伽婆尸沙(Samghavasesa)、波逸提(Prayascittika)、波羅提提舎尼(Prati-desaniya)、突吉羅(duskrta)の四類の罪名を犯せば、半月毎の誦戒布薩(Posadha)の集会に、