羯磨(Karman)の除罪法によって、懺除することができるとされる。そして、現存するインド部派仏教時代の律部(3)においては、犯戒堕獄の記載はまだ見出せない(4)。しかし、『仏説犯戒罪軽重経』および『仏説目連問戒律中五百軽重経』には、その犯戒罪によって堕地獄する年数をはっきりと示している。実際にはこの二経の訳出者とその時代について、問題があり(5)、これはいわば中国で撰述した経典である。この二経に対しては智旭の『閲蔵知津』巻第三十三にも、これを「疑似雑偽律」と指摘しており(6)、また智旭の『重治毘尼事義集要』巻首にも、再びこの二経の思想が五部諸律論に大きく矛盾していることを指摘している(7)。ところで、智旭はこの二経を疑似雑偽の律と認識するにもかかわらず、彼自身の罪報感の基本観点にはそれが影響していない。なぜならば彼の罪報信仰は、地蔵菩薩の経典群のもとにできたものであるとするからである。ところが『目連問戒律中五百軽重経』は、目連信仰によってできたものであり、地蔵信仰はもとより、目連信仰から敷演したものであることが考えられる。目連の母親が「罪根深結」(8)の原因で、餓鬼道に堕ちたので、目連は親孝行のために盂蘭盆の大斎を設けて、その母親を救助したとするものである。これは罪報思想と孝道思想の表現であり、なお地蔵菩薩の経典群の中、ことに『地蔵本願経』は、この目連信仰の罪報思想と孝道思想に継いで発達していたものであると思われる。智旭は、儒教の孝道思想に基づいて仏教の地蔵信仰の孝道思想へ転出し、ついで、地蔵信仰の罪報思想に没頭したが、目連信仰の『盂蘭盆経』に対しても註釈書を著した。よって彼は、『目連問五百軽重経』に対しては批判的態度をとっても、目連並び地蔵に対する信仰心は、すこしも変化していない。『目連問五百軽重経』の本質は、他の目連及び地蔵系統の経典群と全く一致している点に智旭は気がつかなかったものと思われる。
本来、戒律の基準はただ僧団生活の公約あるいは守則にすぎない。もし誰かがこの守則に違反する場合、