明末中國佛教の研究 245

『梵網経』の菩薩戒の性罪は十戒があるので、破戒を絶対にしないというのは、凡夫の場合、不可能というべきである。さきに述べたように性戒を犯すと性罪となる。性罪とは受戒していない人にしても、性戒に相当の悪行をすれば、果報を受けるべきものなのである。そして、智旭は十二歳の折に、菩薩戒を受けていないが、程朱学派の儒教思想に感染されて、闢仏論を製作したことはくり返し述べてきた。これは『梵網経』菩薩戒と『瓔珞経』菩薩戒の第十条「謗三宝」の性戒を犯したことになる。したがって、智旭の罪報思想は地蔵信仰より比丘戒を経て、菩薩戒に帰着していった。すなわち、地蔵信仰に基づいて罪報感を起し、菩薩戒に基づいて懺除清浄の願望を満たしたのである。『梵網経』によれば、懺除清浄の方法とそれを証明する方法は、十重四十八軽の戒本を読誦し、なお三世の千仏を礼拝し、それによって、「見光見華」という「好相」が行者の前にあらわれれば、懺除清浄の証拠とするのである。『占察善悪業報経』によれば、『占察行法』を実践して、清浄輪相が現前すれば、証明されたとされる。そこで智旭は、三十五歳から『梵網懺法』と『占察行法』を修行したのである。既述の如く、彼の資料によれば、四十七歳の元旦の日、ようやく『占察行法』の修行によって、比丘戒の清浄輪相が顕われたという。

智旭の罪悪観において、およそ菩薩戒の謗三宝罪と比丘戒の性遮二罪を二大類別として分割することができる。

謗三宝罪


これについては、智旭の資料中に繰り返して述べているが、ここではその内の四箇所を抄出したいと思う。

とある。この謗三宝罪は、もし比丘戒によれば、四分律戒本、「無根謗僧」では僧伽婆尸沙(6)、謗仏と謗法では波逸提(7)に当る。僧伽婆尸沙は二十人の僧中で説罪出罪し、波逸提は一人比丘の前で悔過の決意を表明すれば、清浄の戒体に戻るはずである。しかし、菩薩戒によれば、非常に重くて、謗三宝を行なうと性罪になり、性罪の懺除が許していても、種々の異相の顕現を求得することは容易ではない。もし異相が顕現しなければ、たとえ何年続けて求めても無駄であるとする。さらに『地蔵本願経』巻上の「観衆生業縁品」によれば、謗三宝の罪は無間地獄に堕ちる(8)べしという。この恐しさは、『梵網経』の教えと地蔵信仰をもつ智旭にとっては、真に大きな衝撃であったと思われる。

比丘戒の性遮二罪


智旭は三十歳前後の折に、懸命に比丘戒律の復活運動に努力したが、中国の環境では、比丘戒そのままに実践するのは決して簡単ではなかった。それ故、彼自身は『占察行法』による清浄菩薩比丘戒の輪相を得る前には、もちろん破戒僧あるいは無戒僧と考えていたが、さらに清浄輪相を獲得した後においてもまた清浄な比丘ではないと反省をしている。しばらくこれに関する資料を挙げてみたい。

さらに、中国の風俗環境は、インドの釈尊時代または部派仏教時代の環境と比べれば、かなり異なっており、後漢時代に仏教がインドから中国ヘ伝来した当初のときより、明末にかける千五六百年の間に、戒律を研究し宣揚する学者はあったが、戒律をそのままに行なった僧団は、いまだかってなかったといえる。この事実を智旭も知らないではないが、なお比丘戒の極微細戒までを守るべきであると強調している(10)。実際には智旭のような高僧の行為標準さえ、清浄比丘の資格にはならないとなれば、まして普通の僧侶では、到底、実行不可能な無理なことではないかと考えられる。

ところで、智旭の戒律復活運動の念願は、事実上は画餅に帰したが、彼の残念な思いは時にふれて表われ、これについて、次のような四点の資料が掲げられる。