- 「絶餘編自序」に、
迨乙亥(一六三五年三七蔵)仲秋、志終不伸。丙子(一六三六年三八歳)春、乃遁。(宗論六ノ二巻五頁)
- 「陳罪求哀疏」に、
始閲律時、稔知末世種種非法、誓集同志五人、若遇五人、如法共住、令如来正法復興。而自旣障深業重、不克與比丘列、復失方便、乖我良朋。(宗論一ノ三巻一三頁)
- 「浄信堂続集自序」に、
虚名日盛、志終不行已矣乎。(宗論六ノ三巻二六頁)
- 「示用晦二則」に、
三十年來、自利旣不究竟、利他又無成。雖種種著述、僅與天下後世、結般若縁。而重興正法之志、付諸無可奈何矣。(宗論二ノ五巻一六頁)
とあり、これらの資料を通して見られるのは、悲しく寂しい未練を残した心情である。智旭は二十七歳から律蔵を閲読し、さらには戒律の復興運動に全力をあげて、同志者を呼喚したり、律学を講義したり、毘尼社を結成したりしたが、遂にこの運動が失敗に帰した後に、彼は九華山へ隠遁する。さらに、後は命終の最後までこの正法の律儀を復興する志を達成していないが、彼の持戒思想と弘律の念願は、以上の四点の資料によく反映しており、ことに彼の自責と失望の心情は明瞭に示されている。
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- 『律二十二明了論』は、一巻本の正量部(Sammittya)の学者によって著述された戒論でぁる。
- 義浄の『南海寄帰内法伝』の序に、「西国相承、大綱唯有四」
と記しているが、すなわち①大衆部に七部あり、②上座部に三部あり、③根本説一切有部に四部あり、④聖正量部に四部を出している。\大正五四巻二〇五頁A