明末中國佛教の研究 252

智旭の贖罪思想の発生した時代を追究すると、それは二十六歳より三十九歳までの間にみられる。むしろ彼はキリスト教の贖罪観を知ってのち、彼が早期よりもっていたキリスト教的な贖罪思想をさらに考え直したことであろう。智旭の贖罪思想の根源を考察すると、やはりそれは仏教のものである。もちろん原始仏教の思想ではないが、智旭の信仰基盤である『梵網経』菩薩戒の重戒第七条に、

而菩薩、應代一切衆生、受加毀辱、悪事向自己、好事與他人。(大正二四巻一〇〇四頁C)

と述べられている。これは菩薩戒を受持した人に対する規則である。菩薩心を発した人は、まさに一切の衆生に代って、それらの侮序と毀謗を身に引き受けて、悪い報いは自分に取り、よいことは一切の衆生に与えるべきであるとする。これは原始教典からすでに教えられた忍辱行にすぎないが、一切の衆生に代って忍辱行を実践するということは、かなり原始仏教の思想より進展したものというべきである。たとえば、『賢愚経』巻第二の「羼提波梨品」に説かれる忍辱仙人の本生物語(1)は、身代りとして他人の悪業によりできた罪報を引き受けることではない。したがって、智者大師は『梵網菩薩戒経義疏』巻下に、この経句を解釈するに当って、「推直於人、引曲向己」(2)と説明している。いわば他人の過失に対しては、これを許し、自分に対しては謝罪するのであって、ここには贖罪説に関するものはまだみられないが、このような態度は、中国古代の君主帝王が、万民百姓に対してよく使う言葉として「罪己」というのがある。例を掲げれば『左伝』に次のように記している。

禹・湯、罪己、其興也浡焉。桀・紂、罪人、其亡也忽焉。(春秋左氏伝。荘十一)

これは、天下万民の罪を自分の責任とすることを「罪己」と云い、自分の過失を万民の罪にすることを「罪人」と云うので、聖王である禹と湯は、「罪己」であったから、その国は非常に隆興と幸福をもたらし、暴君の桀と紂は、