明末中國佛教の研究 254

随於塵剎劫、永処衆苦中、普代衆生苦、令得先成仏。宗論一ノ一巻二一頁
36歳為先慈金大蓮、先厳鍾之鳳、智旭誓処処同為影響、永永代受衆苦。宗論一ノ二巻五頁
37歳歳願為恩師某、仮称悟道、妄評公案、妄造懺法、謗毀先聖、損尅大衆、錯因昧果之罪、悉皆代受。宗論一ノ二巻五頁
悪魔眷属、外道流裔、若罪悪障力、決不能悔悟消融、智旭願皆代受苦。宗論一ノ二巻一八頁
39歳願智旭早生浄土、随乗願輪、普于十方不可說不可說世界海、阿鼻等獄、代其受苦、令彼衆生、先証菩提、仮使法界、唯一衆生、未成正果、智旭甘于無量獄、代受楚毒、尽一切劫、無厭無疲。宗論一ノ三巻七頁

以上のほかに、智旭の著書にみられる「代受衆苦」の贖罪思想にもとづくものは、彼五十二歳の折に作成した『占察経玄義(4)』と『占察経疏』巻上(5)に各一回、さらに彼五十六歳の折の「病起警策偈」の第四偈(6)にもみえているが、『占察玄義』と『占察経疏』には経義を解釈するのは、『大方便仏報恩経』巻第四にある、提婆達多が阿鼻地獄に処身しても、第三禅に入る比丘のように楽しんでいること(7)を引用して、これを「代衆生苦」という菩薩行と説明している。これは智旭自身のことでほない。「病起警策偈」にはただ病苦を体験して、昔の「発心代苦」の思い出を語るだけである。したがって、智旭の贖罪思想が燃え盛った時代は、二十六歳から三十九歳までの間であり、その思想が発生した時期は、彼二十一歳の頃にすでにあらわれたものと思われる。すなわち、彼の「寄母」の手紙に述べている「願減我算、薄我功名、必冀母臻上寿(8)」という祈願詞をみれば、彼が自分の寿命をもって、母親の長生に移さんと願う信仰が、救贖の思想であることは明らかであり、