明末中國佛教の研究 259

現世にこれと似た報いを受けることである。果報とほこの場合は、地獄に堕ることであって、華報とは今世は疾病にかかることである。したがって、智旭が罪報感を強く受けとめている根底にほ、恐らく彼の多病の体質に関係があると考えることができる。なぜなら彼の生涯を通観するとき、彼が病気を得た時期に、必ず自己反省したり、持咒したり、礼懺したり、願文を作ったりしている点が指摘できるのである。実に智旭の宗教情操は、病いに襲われてから、より一層深化したのはまぎれもない事実である。華報として現世で病気になるということに関して、智旭が著作に示しているところは未だ指摘し得ないが、罪報により病気にかかるという意識はかなりみられる(1)。資料中にみえる智旭の生涯における疾病の記載は、次の表の通りである。
年令疾病事件紀要資料根拠
28-29歳掩関於松陵、関中大病。宗論巻首三頁
一病浜死、平時得力処、分毫俱用不著。宗論六ノ一巻一四頁
32歳庚午春、予病滞龍居、然臂香、刺舌血作書。宗論八ノ一巻九頁
35-36歳予癸酉、甲戍、匍匐苦患。宗論六ノ一巻六頁
法友信我於挙世非毀之際、従我於九死一生之時。宗論八ノ一巻一四頁
37歳大病幾絕。宗論六ノ一巻二四頁
乙亥冬、予遘篤疾。宗論八ノ三巻八頁
38-39歳丙子、予病隱九華。宗論八ノ一巻一三頁
年至三十八、大病為良薬、高臥九子峰、腐滓堪咀嚼。宗論九ノ四巻二二頁