衆生良薬無如病、病極形枯心亦灰。宗論一〇ノ一巻一八頁
藉大病良薬、方遂入山本志。卍続六〇巻三一〇頁B
一病五百日、形神並已枯。緇素偶相值、称我為禅癯。宗論一〇ノ二巻一頁
為療悪瘧、持完大悲章句二百七十堂、而瘧漸愈。宗論一ノ三巻四頁
我疾堪嗟療偏難、阿難隔日我三日。宗論一〇ノ二巻七頁
40歳嗚呼負玆莫大七罪、復淹淹残喘、九死一生。半体酸楚、已経十年有餘。三日悪瘧、更纏三年之外。宗論一ノ三巻一四頁
41歳抱病述玄文(2)、抉開千古膜。宗論九ノ四巻二二頁
46歳今夏両番奇疾、求死不得。宗論五ノ二巻八頁
48歳祈比丘智旭、身無病苦、心脫結纏。宗論一ノ四巻一〇頁
49歳予且大病、公執不異顓師(3)。宗論八ノ三巻一一頁
54歳譚埽庵、招同王止庵、高念祖、遊研山、予大病而返。宗論一〇ノ四巻三-四頁
病起感時七偈。宗論一〇ノ四巻五頁
56歳今夏両番大病、垂死。季秋閱藏方竟、仲冬一病更甚、七昼夜不能坐臥、不能飲食、不可療治。宗論五ノ二巻二〇頁
五月二十七日、大病初起、偶述三偈。宗論一〇ノ四巻一三頁
病起警策偈六章。宗論一〇ノ四巻三頁
夏病不知暑、冬病不知寒、夜長似小劫、痛烈如刀山。(十月十八日)宗論一〇ノ四巻一五頁
病間偶成。(十二月初三日)宗論一〇ノ四巻一五頁
大病初起、求生浄土六首。宗論一〇ノ四巻一六頁
又願智旭、従今以後、病苦消除、煩惱氷釈。宗論一ノ四巻一三頁
57歳正月二十日其病復発。二十日晨起病止。午刻、趺坐縄牀角、向西挙手而逝。宗論巻首六首

この表の記載を通じてみると、智旭の生涯において、二十八歳から五十七歳の正月二十一日に亡くなるまでのおよそ二十九年の間で、病気記録の無い年は僅か十三年のみである。しかも無病とは大病なしという意味であり、全く病痛のないことではない。なぜなら、彼の四十歳の記録に、「半体酸楚」という状態がすでに十幾年に及ぶと述べていることよりみれば、恐らく彼は慢性病であるリューマチスの患者であったと思われる。この病気で栄養不良の暮しの中にあれば、死ぬまで治らないというのは、考えられないことでもないであろう。なお九華山に入山した時期にも、病弱な体の持主であった(4)。さらにまた、智旭は彼自身の病いについて、

余多病、名讐鮮應手愈者、獨(孟)景沂、毎投一劑、隨卽霍然。(「孟景沂重刻医貫序」\宗論六ノ三巻一六頁)と述べている。智旭の病気は非常に多く、名医でもなおることは少ない。独り孟景沂という医者が、一服の薬を処方してくれた時は、すっきりとなおったことを自覚したという。しかし、体が弱いので、一度はなおってもまた病気にかかってしまう。ためにしばしば、この孟という医者から処方を貰うのである。かつ智旭においては、風邪を引く程度は病気でほなく、しばしば九死一生の大病を起しているのである。さきの図表の資料をさらに整理してみると、