明末中國佛教の研究 26

必ずしも宗教信仰の現れとは言えないということであろう。

ところで、明の世宗(一五二一ー一五六六)の時代から盛んとなった抑仏崇道の流風は、君主自ら推し進め、仏像の銷毀、宮廷の仏殿の破壊へと発展した。また道士の邵元節に真人の位を嗣がしめ、勅して天下道教の統領権を与え、さらに礼部尚書の官職を加えて、一品の服俸を給した。邵元節が死んだ後に、その後任に張永緒を真人の位に陞らせ、なお方士の陶仲文に少師職、ついで伯爵の位を加封した。嘉靖四十年(一五六一)、すなわち世宗の晩年には、勅して天下の仙術異人および符籙秘方の諸書を求めさせた。おそらく、世宗は道教を盲信し、かつ不老長寿の道術を習ったのであろう。このように、専制の君主が道教の信仰に溺れるあり様であったから、その時代の道教は漸々に盛んになり、多くの仏寺を侵奪することもあった。したがって、神宗の万暦年間(一五七三ー一六二〇)までの中国の仏教界は、はなはだ貧弱で、僧材凋零し、教勢振わず、ほとんどなんの成果も見られなかったといってよい。万暦年間にはいってからようやく仏教の有名僧や名居士が世に出てくるのである。

道教は穆宗の隆慶六年(一五七二)、一時的に禁止されはしたが、やはり道教は中国の民間信仰と老荘哲学の混合からできた地元の宗教であった。それ故、仏教の側から道教と長期間の論争をした後に、ようやく儒・仏・道三教同源の説が盛り上がってきた。したがって、道教と仏教および儒教は、雑然と混淆した形になって、庶民の間に広まった。

日常の善悪行為を反省するために、道教の衰了凡が『功過格』を著わして、一般社会に普及し行なわれたが、明末の仏教僧雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)は、この『功過格』に基づいて『自知録』を作った。それは三教同源論の仏教からの立場のものであり、智旭が程朱学派の思想から仏教者に転身した原因は、この祩宏の『自知録』序および『竹窗随筆』とを閲読したためである。換言すれば、智旭が仏教に信仰心を傾けたのは、