明末中國佛教の研究 27

三教同源説の感化であると言い得よう。

二 明末における道仏の交渉


前節に述べたように明末に至ると、陽明学派の儒家学者たちは大多数が仏教の信仰を受け容れた。同様に道教においても、南宋時代中国北方で、王重陽(一一一三ー一一六九)が全真教を創立したが、これは三教同源説の道教における一つの典型であった。全真教に関する著作は、陳垣氏の『南宋初河北新道教考』および窪徳忠氏の『中国の宗教改革』があるので、その概容に関してはそれに譲りたい(1)。だが全真教のいう「清規」・「不立文字」・「戒律」・「打坐」・「法身」などは、実に仏教の禅宗と天台の止観などを吸収した結果であることが明らかである。

それ故、明末に至ると、三教同源の思潮は非常に流行している。すなわち、仏教においては、憨山徳清(一五四六―一六二三)に、『老子』と『荘子』の註釈書があり、雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)の『竹窗随筆』にも荘子の三則があるが、それらの目的は道教の崇拝でも排斥でもなく、おもうに道教を好んでいる人々を仏教へ誘入しようとしているものに他ならない。たとえば、祩宏の『竹窗随筆』に、次のような記述がある。

夫南華(荘子)於世書、誠爲高妙、而謂勝楞厳、何可笑之甚也。(中華民国四十七年台湾印経処刊本九頁)

これによれば、『荘子』そのものは、祩宏の目で見れば、素晴しい世間哲学の著作であることを一応認めているが、当時のある意見がいう『大仏頂首楞厳経』よりも『荘子』の方が優れているという見解に対しては、