明末中國佛教の研究 262

次の
年令病状
28-29大病
一病浜死
35-36匍匐苦患
九死一生
37遘篤疾
38-39大病
一病五百日
悪瘧療偏難
40九死一生
半体酸楚
46両番奇疾
求死不得
49大病
54大病
56両番大病垂死
夜長似小劫
痛烈如刀山
57病発
病止而逝
図のような結果が出る。

これらを数えてみれば、死ぬ程の大病が十一回の多きに達したことになる。しかし、智旭にとって病気とは、たしかに悩みではあっても、それを怨む感情はみられない。却って病気の苦しみを「良薬」の感情として受けとめている。さらにこの病気の苦しみをもって、将来の重報を転じて生前に軽受することだと考えている(5)。彼はどのような病苦にあってもこれを厭わない。むしろ、彼の仏教信仰とその精神面は、病苦の体験を通じて益々精進が進み、清らかになってきている。彼が、かくも多病で羸弱な体をもっていたにもかかわらず、厳しい戒律生活を守り、人間社会と僧侶教団に対する教化活動に努力し、なお数多くの著作を残したのは、誠に驚嘆に値するであろう。彼の仏教信念における原動力は、彼の多病の体質であり、多病な体質である彼は、罪報あるいは業報思想に対して非常に敏感であり、それ故にこそ、この娑婆世界は確かに苦趣であることを強烈に感受し、自求解脱また衆生度脱の熱望と責任感が燃え盛ることになったと推量されるからである。

智旭の寿命は、六十歳に至らずして終息した。彼の数え年は五十七歳であるが、実際には彼は一五九九年陰暦五月初三日の生まれで、一六五五年陰暦一月二十一日の入滅であり、これを計算すれば、僅か五十五歳八カ月十八日にすぎない。当時として必ずしも短命とはいえないにしても、決して長寿ではない。