明末中國佛教の研究 263

彼を同時代の高僧あるいは名居士と比較すると、智旭の在世期間は短い方に属すると思われる。しかも彼は多病であって、三十八歳と三十九歳の折に、すでに「衰老日侵」(6)という暮年を表現する字句を示し、さらには四十七歳の春、南京の祖堂山の幽棲寺で、清浄比丘戒の輪相を求得すると同時に、「所患命尽」という警告の句もあらわれている(7)。この意味は彼の残る命があまりないということであり、彼自身も年老いたという感じを非常に鋭敏に受けとめているようである。しかし、彼の「閲蔵著述」という念願は、この頃まだ完了していないので、彼は繰り返して仏菩薩の形像の前に哀求し、その念願を終るまでは健康無事を保たせてほしいと祈願していた(8)。それによってか、彼はいわゆる「病冗交沓」(9)という状態のうちに、五十六歳の秋に至って望んでいた著作が、ようやく完成した。すなわち、彼の三十歳から二十五・六年を要した力作『閲蔵知津』および『法海観瀾』の二書がそれである。その他、主著である『成唯識論観心法要』と『大乗起信論裂網疏』などの著述もこのときには完成していたのである。

1 「陳罪求哀疏」参照。\宗論一ノ三巻一四頁

2 「玄文」とは智旭所作『大仏頂首楞厳経玄義』とその『文句』のことである。

3 「顓師」とは憨山徳清の弟子である顓愚観衡のことである。

4 本書第二章第三節第三項の「安徽九華山」条を見よ。

5 「陳罪求哀疏」参照\宗論一ノ三巻一四頁。

6 「絶餘編」三巻二〇頁参照。

7 「大悲壇前願文」参照。\宗論一ノ四巻一〇頁

8

9 智旭五十二歳の折に作成した『占察善悪業報経疏』の自跋にある文句である。\卍続三五巻九九頁B