明末中國佛教の研究 268

次のように記述している。

一見仁體、則天下當下、消歸仁體、別無仁外之天下可得。猶云、十方虚空、悉皆消殞、盡大地是個自己也。

ここでは「天下」を十方虚空と釈し、「仁」を如来蔵性あるいは常楽我浄の真常仏性と釈している。「天下帰仁」とは、すなわち、「滅塵合覚」(2)のことである。結局、この解釈は『楞厳経』巻第三の内容によるものである(3)。しかし、智旭が『楞厳經』をはじめて聞いたのは、彼二十三歳のときであるから、二十歳時代の彼が、この「天下帰仁」という句をどのような意味で理解したのか、これだけをもってしてはよくわからない。しかしこの「大悟」の境域については、彼が「示李剖藩」の法語中に、

王陽明奮二千年後、居夷三載、頓悟良知、一洗漢宋諸儒陋習、直接孔顔心學之傳。予年二十時所悟、與陽明同。但陽明境上錬得、力大而用廣。予看書時解得、力微而用弱。由此悟門、方得為佛法階漸。(宗論二ノ四巻一五頁)

と叙述している。儒教の歴史上の人物に対して、智旭が最も敬意を表しているのは、ただ孔子と顔淵の二人だけにすぎない。他に挙げるとすれば、この二人から二千年後にあらわれた王陽明である。その理由は、王陽明が三十五歳の折に劉瑾の奸計による罪名で、貴州省修文県の竜場駅丞という官職に貶謫された際、万山叢中の瘴厲危険な地理環境の中にあって、王陽明は不運と戦いながら、生死の大事を冥想した。そして、三十七歳にして、王陽明の独特な哲学思想、いわゆる「致良知」の説をようやく大悟したのである。智旭は、儒教者の心法を大悟した人として、孔子第一位、顔淵第二位、そして王陽明は第三位であると、認めている。さらに、第四位の人が誰かということは、智旭は明言していないが、彼自身の二十歳ときの悟境について語っているところは、まさに王陽明に継ぐ第四番目の真の儒教の心法証悟した人は自分であるとの自負がみられると思う。ところで、