明末中國佛教の研究 269

智旭が大悟したことと陽明の悟境とが同様であると推量する理由は、智旭の思想の中心とする「現前一念心」が、如来蔵妙真如性の全体であるが、孔子と顔淵のいう「仁」は、本来宇宙の本体そのものとは考えられない。しかし、智旭はこの「仁」を既述の如く如来蔵性と釈し、陽明哲学に「心卽理」という「良知心」は、実に如来蔵思想から蛻化したものであると見、したがって、智旭の現前一念心と陽明の良知心は、かなり似ているとするわけである。けれども、智旭の現前一念心は、陽明の良知心と類似するにもかかわらず、彼にとっては、陽明の良知心は仏法に登る階段あるいは玄関にすぎない。換言すれば、智旭二十歳のときの証悟において、書籍を読むうちに獲得した悟境は、環境に迫まられて悟境を得た王陽明には及ばない。そのうえ二十歳頃の智旭は、すでに雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)の『自知録序』と『竹窗随筆』並びに『地蔵本願経』などの仏教著書や経典に目を触れているので、陽明と孔子および顔淵の心法を証悟したと記していたにもせよ、彼にとっては、仏教入門への一段階であるにすぎなかったといい得る。

坐禅者としての証悟


「八不道人伝」によれば彼は二十三歳の年に、『楞厳経』を聞き、坐禅という手段によってこの経義に悟入する積りであったが、結局、坐禅していても、彼の心が昏沈したり、散乱したりするので、経義悟入の目的を達しなかった。これは智旭の第一段の坐禅経験である。

智旭は出家しなければ証悟できないと考え、ついに二十四歳に出家し、雲棲寺で古徳法師の『成唯識論』の講座を聞き、『楞厳経』の宗旨と矛盾するという疑問を提出した結果、「性相二宗、不許和会」という古徳法師の回答を得た。これは智旭における性相融会論を望む出発点である。さらにまた、「不怕念起、只怕覚遅」という経句をもって古徳法師と問答したが、依然として判然としない。そこで、紫柏真可(一五四三ー一六〇三)の墓のある径山に往き、第二段階の坐禅時代に入ったのである。この時は『楞厳経』の禅定指導に基づいて修行することで(4)、その翌年に、