明末中國佛教の研究 271

古徳法師のいう「不許和会」の見解は、単なる『楞厳正脈』(一五八六年作成)の作者である交光真鑑(生歿不詳)の邪説に依憑する誤りにすぎないと彼は論断している。

しかし、彼はこのような貴重な宗教体験を得たにもかかわらず、それを聖位菩薩の証悟とは思わず、僅か性相融会の見解が発端したと考えたのである。それ故、この証悟によって、彼は誰にも語らなかったが、自分の胸中には一切の疑問が残っていない状態であったと思われる。ところで、この「非為聖証」という思想根拠は、『楞厳経』巻第九と巻第十であり、この二巻には、禅定によって出現した種々の幻境異相が明細に説かれている。そして「悟則無咎、非為聖証」と明示して、もし聖証という考えに執着すると、種々の邪魔を招く恐れがあることを繰り返して説明しており、智旭自身も『楞厳経』をもって「静中諸境」を決摘する「金錍」となると述べている(8)。

教学の研究としての証悟


これは智旭が禅悟して後、十四年ぶり三十九歳の出来事である。智旭は三十二歳の折に、『梵網経』を註釈する目的で、天台の教学を学び、三十九歳の年、道友である如是道昉の勧請に応じて、始めて『梵網経合註』とその『玄義』を著述すると同時に、『梵網経』を講演した。その時、智旭にとって幾度目かの大病にかかり、かつ五比丘同住する戒律の復活運動が失敗した後に、九華山に隠遁生活をした時代である。当時の彼の環境は極めて物質的にも欠乏し、また肉体的痛苦の時期であったが、却って彼の精神面においては、むしろ最高の試練を受け得たといえる。肉体の存在を忘れ、世間事も離れ、一切の思慮と妄念がなくなったので、いかなる儒教・道教・および仏教の禅と律と教などの思想距離は、すべて権巧方便にすぎないと覚悟することが出来たのである(9)。

この証悟と坐禅による証悟との異なるところは、大小乗の戒律と天台教観を学んでから、儒・仏・道の三教同源および禅・教・律の三学一致の思想を大統一していることで、ことに注意すべきは、